2024年10月20日「一粒の麦」

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聖句のアイコン聖書の言葉

20節 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
21節 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22節 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23節 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24節 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25節 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26節 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」ヨハネによる福音書 12章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

「一粒の麦」ヨハネ福音書12:20〜26

本日の箇所では、過越祭のためにエルサレムに登ってきたギリシア人たちが主イエスに面会を求めた時に、主イエスが語られた短い説教が収録されています。この説教は「人の子が栄光を受ける時が来た。(23節)」、と始まります。今までこのヨハネ福音書は、「イエスの時はまだ来ていなかった」、と繰り返してきました。それが、ここで初めて、「人の子が栄光を受ける時が来た」、と主イエスの口を通して、そのイエスの時の解除が告げられたのです。そして、「人の子が栄光を受ける時が来た」、この「栄光」というのは主イエスの十字架から始まる救いの御業全体を指します。繰り返し確認してきましたように、主イエスの栄光に十字架を含めるのが、このヨハネ福音書の大きな特徴だからです。ですから、これから語られる主イエスの説教は、この十字架を指し示すものであり、十字架によって実現する救いの恵がその内容となっています。それが、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(24節)」、この「一粒の麦」のたとえです。いうまでもなくこれは、主イエスの十字架の死によって、多くの人に救いと永遠の命が与えられることが宣言されたものです。気をつけなければならないのは、ここで言われている「一粒の麦」というのは、主イエス以外ではないということで、これはそのまま十字架の福音なのです。

この「一粒の麦」、というのが、現代に至るまで歴史の中で多方面にわたって使われてきました。特に自己犠牲によって多くの人たちのために生涯を捧げた人の姿にこの言葉が用いられてきました。しかし、まず確認しなければならないことは、主イエス以外に「一粒の麦」はあり得ない、ということです。軽々しくそのままこの「一粒の麦」を他の者に転用したり、応用してはならないのです。

 それでも、「一粒の麦」ではなくても、それに似た者、「一粒の麦」のようになることは、むしろ勧められているのです。それが、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(25節)」、この主の御言葉で、これが、「一粒の麦」との関係で語られていることは明確です。つまり、「一粒の麦」のようになることが、ここでは求められているわけです。

 しかし、ここで間違えてはならないのは、「自分の命を愛する者」、あるいは、「この世で自分の命を憎む人」、と繰り返し使われる命の意味です。聖書には、肉体の命を粗末にするような理解はありません。むしろ、神に創造された肉体は最大限に大切にしなければなりません。しかし、肉体は、必ず衰えて、滅びて、そして朽ちていくのです。ですから、「自分の命を愛する者」、というのは、肉体の命だけに愛着を持って、神様との霊的な関係を無視して、この世の価値観に支配されて生きる者のことです。その場合、不完全な命を愛しているだけなので、結局大切な真の命の方を失うのです。同じように、「この世で自分の命を憎む人」、というのも、決して肉体の命を粗末にする人ではありません。キリストとの関係で永遠に続く命全体を視野に入れる以上、この肉体の命は、その一部分に過ぎない、それを信仰の目を持って理解する人のことです。

肉体の命は大切にしなければなりません。この地上で神様と教会に仕えるために、そして、この世で労働していくために、家族のために、この肉体はとても大切です。肉体がなければ福音宣教もできません。しかし、それでも、この信仰に生きる以上、その大切な肉体の命を失ったとしても、それは決定的な問題ではないのです。ですから、続いて、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」、この生き方が具体的に示されます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。(26節)」、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」、これが「自分の命を保って」、永遠の命に至る道です。

ここで、「わたしに従え」、と主イエスが言われます「従う」、という字は、弟子になる、とも訳せる言葉で、主イエスの弟子たちが、主イエスの後に従った、という記事の中で頻繁に使われる言葉です。そして、主イエスに従うという具体的な内容が、ここで「仕える」、という言葉で繰り返されています。この「仕える」、という動詞はギリシア語でディアコネオー(διακονέω)と発音しまして、これが名詞になりますと今の教会の中で執事さんの働きを象徴するディアコニアという言葉になります。このディアコニアは、もともとは、給仕するという台所仕事を指す言葉でありましたが、これが最初期の教会の働きに転用されて、食事の用意はもちろん、教会の事務的な作業から、福音宣教の働きまで含めた教会の奉仕全般をさす意味を持つようになりました。すなわち、「わたしに従え」、と主イエスが言われます時、私たちは、具体的には与えられた賜物を用いて教会活動に勤しむ、そのことが求められているのです。十字架の主の後に続け、というのは、決して勇ましく殉教することを勧められているのではないのです。むしろ積極的に生きて、福音宣教に勤しむことです。ディアコニア、これが「一粒の麦」のようになるための私たちの務めなのです。決して派手なことではなくて、むしろ、愚直に毎週礼拝を献げ、与えられた奉仕を通して福音宣教に仕えることなのです。

この「一粒の麦」のたとえは、実際、小麦の栽培で生活を営んでいたパレスチナ地方におきまして非常にわかりやすいものであったのではないでしょうか。彼らは、実際「一粒の麦」が蒔かれて、芽を出して力強く成長し、多くの収穫をもたらす現場にいたからです。私たちも字面だけ追って、この「一粒の麦」のたとえを思想的にだけ捉えていては少しぼんやりとしてしまうのではないでしょうか。

もう50年ほど前になりますが、広島の原爆を経験された中沢啓治さんという漫画家が、その経験を綴った「はだしのゲン」という作品を出されました。これは作者自身の原爆による被爆体験を基にした自伝的な内容であり、そこにある戦争と軍国主義に対する怒りのメッセージは強烈であります。

しかし、作者によりますと、それ以上にこの作品の中心にあるのは、ゲンの父親が残した言葉であるようです。「元 おまえは 麦になれ きびしい冬に芽をだし ふまれて ふまれて つよく 大地に 根をはり まっすぐにのびて 身をつける 麦になれ」、主イエスの「一粒の麦」のたとえで多くの実を結ぶ麦も、この強い麦以外ではないのです。「一粒の麦」が蒔かれたら、何の困難もなく自動的に成長し豊かに実るわけではないはずです。この主イエスの譬えを聞いた人々はそのように了解したでしょうし、何よりも、この御言葉に生きた最初期の教会の信仰者は、踏まれても、踏まれても逞しく芽を出す麦のように異教社会で福音宣教に勤しんだのです。主イエスが「一粒の麦」となって十字架で死んでくださった。私たちがこの十字架の主に従う、というのは、きびしい冬に芽をだし踏まれても、踏まれても大地に根を張り、まっすぐに伸びて、多くの実を結ぶことです。これが「一粒の麦」として、教会と私たちに求められていることです。つまり忍耐し、隣人を愛する、このことが、多くの実を結ぶことに直結するのです(Ⅰヨハネ3:16)。「一粒の麦」、それは、主イエス様のお役に立ちたい、教会のお役に立ちたい、兄弟姉妹、そして隣人のお役に立ちたい、と歩み続けることです。踏まれても、踏まれても、不完全でも、欠点だらけでも、恥をかいても、ポンコツでも歩き続けることです。