2024年10月13日「エルサレム入城」
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エルサレム入城
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ヨハネによる福音書 12章12節~19節
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聖書の言葉
12節 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13節 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
14節 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15節 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
16節 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
17節 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
18節 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
19節 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
ヨハネによる福音書 12章12節~19節
メッセージ
説教の要約
「エルサレム入城」ヨハネ福音書12:12〜19
主イエスのエルサレム入城は、四つの福音書いずれにも記録されている非常に重要な記録です。ヨハネ福音書は、どの福音書よりもこの記事を簡潔に描き、その中心点にスポットを当てています。
まずここでは、主イエスのエルサレム入城に熱狂する群衆の姿が描かれています。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。(12、13節)」、このように、群衆は、ラザロを生き返らせ(17節)、それ以外にも数々の奇跡を行ってこられた(18節)主イエスを「イスラエルの王」、と称えたのです。
しかし、主イエスの姿は、その群衆の熱狂とはかけ離れたものでした。「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。(14節)」、この時代におきまして凱旋する国王の乗り物は軍馬でした。軍馬に乗って、威風堂々と都に凱旋する、これが国王の姿でした。しかし、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」、とその姿が記録されています。当時ろばは、挽臼を引いたり、重たい荷物を運ぶために用いられていました。主イエスは戦いの道具ではなく、労働の道具を用いて都エルサレムに入城されたのです。
実は、この主イエスのお姿は、旧約聖書でゼカリヤという預言者が預言していたことです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。 わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ書9:9、10)」、この通りです。群衆が主イエスを「イスラエルの王」と叫んだのは決して間違いではないのです。しかし、その王は、群衆が期待したような軍馬や鎧をまとった軍事的な王ではなくて、平和の王であったのです。
その上でこの主イエスのエルサレム入城に対する弟子たちの理解が、「弟子たちは最初これらのことが分からなかった(16節)」、記されています。決して知らなかったわけではないのです。当然、弟子たちもユダヤ人ですから、ゼカリヤの御言葉も、その預言もよく知っていました。しかし、字面でしか、その御言葉を理解していなかったということです。「高ぶることなく、ろばに乗って来る」、これが目の前で実現しているにもかかわらず、主イエスの側近であった弟子たちは、その時はわからなかったのです。それは、彼らも群衆と同じ立場であったからです。弟子たちは、このエルサレムの熱狂の中、ナザレのイエスに従っている今ほど、幸せな時間はなかったのではないでしょうか。彼らもまた、主イエスがどのような王であるか理解していなかったからです。弟子たちは、エルサレムに王国を築いてくれる軍事的なメシア、この世的な王として主イエスに期待していたのです。
この主イエスのエルサレム入城に対して、最も冷静、かつ客観的に観察していたのが、ユダヤの指導者たちでした。「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。(19節)」、このように、熱狂する群衆とは全く違う立場であるように見えます。しかし、その正反対に見える両者が、このほんの数日後に手を結ぶのです。
群衆が、熱狂して、「叫び続けた(13節)」、と記録されていましたが、この「叫び続けた」、の叫ぶ、という字は金切り声を上げる、そういう感情むき出しの姿で、そして実は、今度この全く同じ字が群衆に使われる時は、彼らの正反対の姿が表現されるのです。「彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。(19:15(207))」、この「彼らは叫んだ」、とあります「叫んだ」、という字が「ホサナと叫び続けた」、と使われている全く同じ字です。
群衆は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」、と叫び続けてから一週間も経たないうちに、その「イスラエルの王」であるはずの主イエスを「殺せ。殺せ。十字架につけろ」、と同じ叫び声をあげているのです。そして、主イエスのエルサレム入城の時には、正反対の立場にあった群衆と祭司長たちが、ここではグルになっているのです。
結局、この場面では誰一人正しく主イエスを向かい入れた者はいませんでした。熱狂した群衆も、それに同調していた弟子たちも、遠くから冷静に観察していた祭司長やファリサイ派の人々も、誰一人、主イエスのエルサレム入城が理解できませんでした。その中で、「イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した(16節後半部分)」、ここにだけ主イエスのエルサレム入城に対する正しい理解が開示されていました。これは、今再臨の主イエスが王としてこの世に入城されるのを待ち望む私たちに与えられている忠告ではないでしょうか。私たちは今、再臨の主をお迎えする備えができているでしょうか。私たちは熱狂していても、冷静に観察していても正しく主イエスを迎えることはできません。聖霊に導かれなければ駄目なのです(ヨハネ7:38、39と14:25、26、さらにⅠコリ12:3を参照ください)。
そのうえで、「イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」、これを現在の文脈で理解することが大切なのです。
今度、「イエスが栄光を受けられたとき」、それは終わりの日、終末に他なりません。私たちが今正しく主イエスをお迎えするためには、「それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを」、今思い出していることです。それは、すなわち、聖書全体が、主イエスについて書かれたものであり、今の時代の人々も、そのとおりにイエスにしている、ということを聖霊に導かれて見抜く、ということであります。
世界の至る所で争いが続き、そこでは主イエスの愛された幼い命、貧しい者たちの命が簡単に奪われている、それはまさに今、この世の支配者たちがイエスにしていることです。この世の最も弱い者たちに加えられている暴虐は、主イエスご自身に対する暴虐だからです。
「それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにした」、実にこれは今、私たちの目の前で起こっている現実なのです。私たちは、今こそ主イエスのエルサレム入城の時であることを悟り、御国の完成のために勤しまなければなりません。「御国をきたらせたまえ」、といよいよ熱心に祈るのです。その中には、大切な友人や家族が救われるように祈り求めることも当然含まれましょう。あるいは、ちょうどこの週は、為政者のために、戦争ではなく平和と国民のために勤しむ為政者が立てられるように祈り求めること、これがキリスト者である私たちの勤めです。しかし、何よりも大切なのが、この主の日の礼拝です。私たちは、この礼拝において最も鮮やかに、「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」、この来るべき十字架の主イエスの証を立てているからです。