2024年10月06日「主に喜ばれる献身」
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主に喜ばれる献身
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 12章1節~11節
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聖書の言葉
1節 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2節 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3節 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった
4、5節 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6節 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7、8節 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
9〜11節 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
ヨハネによる福音書 12章1節~11節
メッセージ
説教の要点
「主に喜ばれる献身」ヨハネ福音書12:1〜11
本日からヨハネ福音書講解説教は、いよいよ12章に入っていきます。最初に確認しましたが、このヨハネ福音書は、大きく前編後編の二つに分けられ、通常12章の終わりまでが「しるしの書」、と呼ばれる前編、そして13章以降が「栄光の書」、と呼ばれる後編、とこのように区別されています。
この理解で整理しますと、11章で記されていたラザロの復活は、最後のしるしであり、先週学びましたように、これが直接的に主イエスの十字架を決定づけることになったわけです。そういう文脈構造におきまして、この12章全体は、前編と後編の橋渡し部分、といえる御言葉で、「しるしの書」のエピローグ部分、そして「栄光の書」のプロローグ部分として優れて機能しています。
まず本日の箇所では、主イエスがラザロ、そしてマルタとマリアの姉妹の家に招かれて食事をしていた時に起こった出来事が示されています。それは、食事の席で、「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった(3節)」、このマリアの行為によって引き起こされました。
この後、弟子の一人であったユダが、この香油に三百デナリオンの値段をつけています(5節)。1デナリオンが当時の労働者の1日分の賃金と言われていますので、ここでマリアが主イエスの足に注いだナルドの香油は、労働者一年分の価値があったわけです。今の私たちの国で言いますと少なく見積もっても300万円くらいになりましょうか。マリアは、その300万円分のナルドの香油を惜しげもなく使い果たし、そればかりかここでは、「自分の髪でその足をぬぐった」、と記されています。今もそうですが、女性にとって髪の毛というのは非常に大切なものです。ジェンダー差別が問題とされる現在は、男性こうで、女性はこうだ、という言い方は不適切とされますが、そのような概念さえなかった古代におきまして、女性にとって髪の毛は、体の中で最も麗しい部分で宝物と言えるほどでした。逆に道路の舗装などされていないこの時代、足は体の中で最も汚れる部分でありました。ですから、自分の髪でその足をぬぐった、というマリアのこの姿も、大変異様な光景として人々の目に映ったはずです。
これに対するユダの非難(4、5節)に対して、主イエスは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから(7節)」、と弁護します。もちろんマリアは、主イエスが十字架で死なれることを予期して、ナルドの香油を注いだわけではありません。まさか、この後始まる過越祭で主イエスが十字架に付けられるなんて思っても見なかったでしょう。おそらく、大切な兄弟のラザロを生き返らせて下さったその感謝の思いから自分の持っている最も高価なものを献げたのでありましょう。つまり、ここで大切なのはそのような動機ではなく、それがどのように主イエスに用いられたかである、ということなのです。マリアは、図らずも十字架の主イエスの埋葬の準備をしていたわけなのです。献身は感謝の応答なのです。
これは、私たちの献げものに対する非常に重要な導きではないでしょうか。私たちは、毎週献げものを持って礼拝に集まり、主イエスの御用のために感謝しつつお献げしています。それは、私たちの思いを超えて主イエスが最も必要とされているところで用いてくださる、このことがこの御言葉を通して示されているのです。
マリアが主イエスの足に注いだナルドの香油で、家は香油の香りでいっぱいになった、と記録されています。調べてみますと、この香油の香りはちょっとやそっとでは抜けないと言います。家中に満ち溢れたその香りは、主イエスの足元から漂っていったのでありましょう。さらに想像を膨らましてみますと、この後も主イエスの足元からナルドの香油が香り続けたように思えるのです。このすぐ後のエルサレム入城、そして、主イエスが十字架に付けられて殺されるその日まで、マリアの香油は主の足元で芳しい香を漂わせていた、埋葬の準備の一つにそういう役割もあったように思えてならないのです。女性ならでは、という言い方も今は不適切とされますが、この時代のこととしてお許しいただければ、女性だからできた発想が、そしてその感性が、ここでは豊かに用いられたわけであります。ジェンダーの問題は大切でありますが、どんな時代になってもこのマリアの姿は、教会で語り継がれていく大切な聖書の女性の姿であります。
今日は、「主に喜ばれる献身」という説教題が与えられましたが、このマリアの献げる姿とそれを批判したイスカリオテのユダの姿を通してそれが示されているように思えます。
繰り返しますが、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」、これがマリアの献げる姿で、マリアは、決してこれが主イエスの埋葬の準備になろうとは思っていませんでした。彼女は、彼女のできる精一杯のことをしただけなのです。これが大切なのではありませんか。
「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」、それがいくらの価値があるかなんてこの女性にとっては問題ではなかった。そんなことは、どうでもよかったのです。ただ、自分ができる精一杯のことをマリアはやりたかった。これが献身ではないでしょうか。
タイミング的にも決してよいわけではなかったのです。足を気にするのは、食事の時ではなく、その前です。主イエスが家に入って来られたタイミングでやればもっとよかったはずです。しかし、献身にもっとよかったはないのです。タイミングという計算高さも不要です。主イエスにお献げするのはタイミングや計算ではなく、常に最もよいものである、それを聖書はここで語っているように思えます。
マリアが行為で示したように、「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」の価値がどうであるか、それも全く問題ではないのです。ユダは、それを「三百デナリオン」、今で言いますと300万円以上、と値踏みしました。しかし、主イエスはそのような金額には全く興味を示しません。すなわち、献身にこの世的な価値観は全く問題とされない、ということです。
今、私たちはちょうど会堂建築のために献金を献げようとしています。この世的な金額で言えば、一人一人ばらつきがあるはずです。しかし、わたしたちが主イエスのために取り置いていた最もよいものを献げる以上、それは、多くても少なくても、全て、「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」以外ではないのです。それは、決して三百デナリオンではないのです。純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラとして主イエスは用いてくださるはずです。多くても、少なくても、真心がそこにあれば、その価値は全く同じなのです。もちろん、私たちの献げものは、献金だけではありません。教会での奉仕の全てが私たちの献身です。それぞれ与えられた賜物が用いられて教会に仕えます時、それは、「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ」として主イエスに用いていただけるのです。
「ナルドの香油」の芳しい香りは、何よりも今私たちのお献げするこの礼拝で漂っています。「家は香油の香りでいっぱいになった」、これが今この教会という神の家で実現しているのです。