2024年09月29日「神の摂理と十字架の保証」
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神の摂理と十字架の保証
- 日付
- 説教
- 新井主一牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 11章45節~57節
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聖書の言葉
45節 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
46節 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
47節 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
48節 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
49節 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50節 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
51節 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
52節 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
53節 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
54節 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
55節 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
56節 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
57節 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。
ヨハネによる福音書 11章45節~57節
メッセージ
説教の要約
「神の摂理と十字架の保証」ヨハネ福音書11:45〜57
本日の御言葉は、ラザロが生き返ったことを目撃したユダヤ人の中で、ファリサイ派の人々のもとへ行き密告した者たちがいたことから、記事が展開していきます。密告を受けた、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集してまで、イエスについて議論し、「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう(48節)」、と最悪のケースに怯えました。これは、民衆が政治的、軍事的メシアとしてナザレのイエスを旗印にクーデターを起こした場合に想定されるローマ帝国報復のシナリオです。しかし、その時、この最高法院の議長であった大祭司カイアファは、「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。(49、50節)」、と叫びました。これは、最も簡潔に言えばナザレのイエスを殺害しようという提案で、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」、と頭を抱える最高法院の議員たちに、だったら、クーデターが起こる前に、我々がそのナザレのイエスを捕まえて、ローマ帝国に対する政治犯としてローマ側に連行すれば、一石二鳥ではないか、そんなこともわからないのか、とこのように大祭司カイアファはツッコミを入れているわけです。これは、邪魔者であるイエスを亡き者にした上にローマ帝国に対する点数稼ぎもできるじゃないか、簡単にいうとそういう論理で、ナザレのイエス一人の犠牲によって彼らの体制の安全と、ローマとの平和が実現する、これが、この最高法院のトップにいた大祭司カイアファの政治感覚です。
しかし、ここでこの福音書記者のナレーションが入ります。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。(51節)」、カイアファは、自分たちに最も都合がよくて、益となるように企みました。それが、イエスを政治犯としてローマ帝国に引き渡し、殺すというアイディアでありました。しかし、それは神の側から見れば、イエスが国民のために死ぬことであり、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬことである、この救いのご計画であったのです。ここで言います国民、というのは神の民ユダヤ人のことです。その上で、ここでは、散らされている神の子たちの救いにまで言及されていて、これは、国籍を問わず全世界に散らばっている全ての信仰者を指します。ですから、ここでは、十字架の救いが全人類にまで及ぶことまで預言されているわけです。カイアファは、自分たちのちっぽけな利益のためにナザレのイエスを犠牲にしようと企みました。しかし、それが神のご計画の中で、これ以上ない十字架の救済事業として進展していくわけなのです。図らずもカイアファは、この計り知れない神の救いのご計画を口にしていた、ということなのです。
ここでは、全ての者たちの企みや考えを遥かに凌駕した神の摂理の御業を見ることができます。カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」、と彼の政治的な知恵をひけらかしました。この男は、何が一番自分たちにとって有利なのか、そのことを追求したのです。これは昔も今も変わらないこの世の多くの政治家の思考回路を支配する原則で、それがどれだけ悲惨な現実を作り出しているか、まさに私たちはそれを今目撃しています。何が好都合なのか、それが大国の指導者たちの共通認識だからです。
イスラエルとハマスとの争いが起こって一年が経とうとしています。豊かなイスラエルが、貧しいガザを徹底的に破壊している、彼らも自分たちが有利になれば、貧しく弱い人の命などどうでもいいのです。しかし、「カイアファが自分から話したのではない」、と聖書が言います時、今のこの悲惨な現実の中にも希望が溢れてくるのではないでしょうか。そこにも必ず神のご計画があって、神の摂理の御業が働いているからです。その保証がイエスキリストの十字架なのです。カイアファは、卑しい利益を追求して主イエスの殺害を提案しました。しかし、それが全人類の救いの実現へと変えられたのです。そして、神の御子の十字架は、歴史の頂点であり、どんな重大な出来事でさえその足元にも及びません。この世がひっくり返っても、人類が滅亡しても、神の御子が十字架で死ぬなんてことはあってはならないからです。ここに私たちの慰めと希望があるのではないでしょうか。神の御子が十字架で殺された以上、どのような悲惨であってもそれ以上ではないからです。私たちは、これからどのような悲惨を目にしても、経験しても、十字架を仰ぎ、耐えることが許されているのです。世界史全体は神の摂理の中にあって、その中心はイエスキリストの十字架に他ならないからです。
現代のカイアファも、自分たちの立場を守り、利益を追求し、戦争を続けています。しかし、聖書の言葉に信仰の目を開いて静観すれば、その自分勝手で愚かな行為でさえ、神の国の完成に用いられていることが明確です。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。(マタイ24:6〜8)」、ここでは、主イエスが弟子たちにこの世の終わりの時の状況を教えておられます。そのしるしとして繰り返し示されているものが戦争で、「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」、そして、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり」、と言われている通りです。この世の支配者たちは自分たちの都合で戦争を始めて、その結果多く人が犠牲者となります。しかし、神の国の理解では、それは、終わりの日が実現する、産みの苦しみの始まりに過ぎない、逆に言えば、その彼らの愚かな行いも神の国の完成のプロセスに組み込まれているのです。さらに、愚かな戦争の犠牲になった貧しい人々のたった一人でも、主イエスが忘れられるはずはないのです。必ずや、終わりの日に、全てが明らかにされるはずです。あるいは、飢饉や地震といった私たちが目撃している悲惨な現実も神の国の完成と無関係ではないのです。私たち信仰者にとって、運命や宿命は存在せず、偶然さえ一つもないのです。どんなに残酷な支配者であろうと、神の御支配と摂理の中で足掻いているだけの話なのです。
その上で、私たちの役割が示されています。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:14)」、この福音宣教です。戦争や天変地異のようなものがこの世を終わりへと導くのではないのです。それらはほんの兆候に過ぎません。この世を終わりに導き、キリストの日の実現のために最も用いられ、重要とされるのは私たちの福音宣教なのです。
これから先、どうなってしまうのか、とこの世は嘆きます。何とも希望を持てない暗い時代ではありませんか。しかし、その只中で、私たちはイエスキリストの十字架を宣教するのです。十字架こそ世界史のクライマックスであり、歴史全体に響く福音であり、世の終わりまで輝く光であるからです。