2024年09月15日「ラザロ、出てきなさい」
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ラザロ、出てきなさい
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 11章38節~44節
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聖書の言葉
38節 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
39節 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40節 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
41節 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42節 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43節 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44節 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 11章38節~44節
メッセージ
説教の要点
「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ福音書11:38〜44
いよいよ本日の御言葉でラザロの復活の記録の最終回となります。ここではまず「墓は洞穴で、石でふさがれていた。(38節)」、とラザロの墓の様子が記されています。
この時代の墓は、山腹をくり抜いた横穴の洞窟で、その中の岩の寝台のようなところに遺体が安置されていました。現代のお墓と構造的には全く違いますが、本質的に両者は同じです。それは、「石でふさがれていた」、ということで、冷たく重たい石が、命ある者の世界と死者の世界を隔てているという厳然たる事実です。ですから、「その石を取りのけなさい(39節)」、と主イエスが言われた時、これは、命ある者の世界と死者の世界との隔てを取り除くことを意味します。
この世の論理では、これは全くもって無駄なことです。生命が躍動する世界と、死んで朽ちていく者たちが横たわる世界が、接続する必要などないからです。人々にとって、その隔ての象徴である墓石は磨くものであっても、取り除くものではありません。それが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」、このマルタの進言です。このマルタの立場こそ、墓石を磨き、花を供えて、故人を偲ぶ、という現在に通じる姿です。彼女にとって、この石は命と死を隔てるそれは重たい、重たい障壁であったわけです。
それに対して主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか(40節)」、と言われました。この主イエスの言葉は、ラザロの復活の記事全体の底流を流れる中心的メッセージです。この記録の最初でラザロの病の報告を受けた主イエスは、開口一番、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。(4節)」、と言われました。これを信じるか、信じないか、それがこの記録全体で問われた信仰であったわけです。
19世紀のデンマークにキルケゴールという神学者がおりまして、彼は、このラザロの復活の御言葉を下敷きにして「死に至る病」という有名な著作を書き上げました。キルケゴールは、そのプロローグ部分で、「この病気は死で終わるものではない」、というこの主イエスの言葉を引用して、主イエスがおられる以上、どのような病であってもそれは死に至るものではない、と定義します。彼は死でさえも、キリスト者にとっては死に至る病ではないと説明し、これを根拠に「死よりも苦しい」、と人々が訴える苦難、困窮、病、悲惨、苦痛、このいずれであってもそれらは死に至る病ではない、と明確にしていきます。その上で、キルケゴールは、最も恐るべきものとして「死に至る病」があることを指摘するのです。その死に至る病とは、絶望であり、信じないこと、信じられないことである、と結論づけます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」、この主イエスの約束を信じることができない、その場合、そこにあるのは絶望であり、これこそ恐るべき死に至る病であるわけです。そして、この「死に至る病」が厄介であるのは、自分が絶望にあることを知らないでいる、ということです。病の自覚症状がないのです。これが私たちの生かされているこの世界の有様ではないでしょうか。人類の希望は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」、これにかかっているのです。私たちの役割は、「死に至る病」が蔓延しているこの世にキリストの福音を宣教し、復活の希望を証言することであります。
さて、その上で主イエスは、「ラザロ、出て来なさい(43節)」、と大声で言われました。ここで大切なのは、私たち信仰者の復活の時も同じ状況が起こる、ということなのです。終わりの日に、イエス様の声が響き、死者の復活が実現する、ということを主イエスがすでに言われていました。
「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。(5:28)」、ここで予告されています終わりの日の有様を象徴する出来事として、今ラザロが生き返るわけなのです。ですから、実際ラザロが生き返るその描写は、何の脚色も加えられず、非常に淡々と事実のままに記録されているだけです。死者の復活というこれ以上ない驚くべき奇跡を実現した主イエスは、「ほどいてやって、行かせなさい(44節)」、と言われただけでした。このラザロの復活は、終わりの日の全人類の復活の序章に過ぎないからです。やがて起こる全人類の復活に比べれば、このラザロの復活は取るに足らないものでありました。ですから主イエスは、このラザロの復活の出来事そのものにはほとんど興味を示されずに、「ほどいてやって、行かせなさい」、とこれから先のラザロの生活の配慮をなされたわけなのです。
このラザロの復活の記事を通して、非常に大切なのは、この復活させられたラザロが、最後まで受け身であった、ということです。この記録はラザロの復活であるにも関わらず、ラザロは何もしていません。それどころか、彼には一言のセリフさえ与えられていません。ただ死んで葬られて、朽ちていくだけの登場人物でした。しかも、仕舞いには、「顔は覆いで包まれていた」、とその覆いさえほどいてもらう始末でした。つまり復活というのは、私たちにとって徹底的に受け身である、ということです。私たちは死んで朽ちていくだけであるにも関わらず、それでも尚復活は約束されている、ということです。復活に関して私たちの役割は一つもないのです。
このラザロの復活を読み終えた時、この記事は、長い聖書箇所を使って描かれてきた割には、あっさりとその幕が閉じられるような印象を与えられます。それは、このラザロの復活というのは、イエスキリストの十字架の序章のように機能しているからです。次回以降の御言葉で明らかになりますが、このラザロの復活が、直接的に主イエスの十字架への道を開いたのです。すなわち、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた」、その主イエスが、あろうことか、十字架へと、墓へと今歩み出していく、これがこの記事のエンディングなのです。ラザロは墓から出て生き返り、主イエスは墓へと、死へと向かうのです。命と死がここから逆転するのです。
ですから、このラザロの復活の記録は、決してハッピーエンドではありません。むしろ、何ともあっけない幕切れでありまして、その先に十字架が立っている、このことを読者に訴えているようであります。「ラザロ、出て来なさい」、と言われた主イエスが、彼の居場所であった死者たちの世界へと向かう、私たちは最後にこのことを覚えておきたいのです。
私たちも必ず地上の生涯を終えて、墓の中で朽ちていくものであります。しかし、終わりの時に、私たち一人一人のその名が呼ばれて「〜出て来なさい」、とキリストの声が響き渡ります。そのキリストは、十字架の主であります。私たちは復活という最高の祝福に希望を抱いて、この地上の生涯を終えていく者であります。しかし、その希望は、イエスキリストの十字架にかかっている、私たちの身代わりになって神の御子が十字架で殺された。このことを最後の最後まで感謝しながら目を閉じていきたいのです。