2024年09月08日「イエスは涙を流された」
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イエスは涙を流された
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 11章28節~37節
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聖書の言葉
28節 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
29節 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
30節 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
31節 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
32節 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
33節 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34節 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った
35節 イエスは涙を流された。
36節 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
37節 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
ヨハネによる福音書 11章28節~37節
メッセージ
説教の要約
「イエスは涙を流された」ヨハネ福音書11:28〜37
先週の箇所で「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(25節)」、この主イエスの復活宣言を聞いたマルタは、家に帰り姉妹マリアを主イエスの許に遣わしました。
主イエスの許に辿り着いたマリアは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに(32節)」、と姉妹であるマルタと一字一句同じ訴えをしました(21節参照)。
つまり、この姉妹にとって、死というのは、決定的なことであって、死という事態が起こってしまった以上、全てお仕舞いで、どうすることもできないということなのです。主イエスは、肉体が生きているのであれば、これ以上ない頼れるお方でありましたが、死んでしまってはその主イエスであっても、もはや役なしであったのです。すなわち、この姉妹にとって、現実的に、死を越える力はどこにも存在しなかったわけでありまして、主イエスもその死の支配下に見積もられていたわけです。
主イエスの足元に崩れ落ちて嘆き悲しむマリアと、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮して、「どこに葬ったのか。(33節)」、と言われました。ここで、「心に憤りを覚え」、という表現が使われています。この「憤り」という字は、喘ぐという意味が強くて、激しく息を吐く様子を示す言葉です。宗教改革者ジョン・カルヴァンは、「戦いにのぞむ闘士として主イエスは墓に向かわれた」、とこの「心に憤りを覚えて」の部分に注釈を入れています。それは主イエスが救い主であって、私たち人間が、手も足も出ない死と戦うために、そしてこれに勝利するために来られたからです。死という決定的な力を前に泣き叫ぶしかない、この人間の悲惨な現実に救い主の心は憤りを覚えたのです。
しかし、この世の救い主は、決して人間の悲しみと無関係なクールな闘士ではありませんでした。
「イエスは涙を流された。(35節)」、と御言葉は言うからです。
この涙を流す、という字は、新約聖書でここにしか見られない珍しい言葉で、涙が頬をつたう、のような静かな状況ではなく、声を上げて泣く、わっと泣いた、そういうニュアンスです。死との戦いにのぞむ闘士が、ここで声を上げて泣いた。これがイエスキリストであります。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」、この主イエスの宣言には何の偽りもございません。主イエスご自身が、この後十字架と復活によってそれを証明してくださいます。しかし、だからと言って、人の肉体の死に対する悲しみが消えたわけではないのです。死んでも生きるのだから、悲しむ必要も、泣く必要もない、なんてことは、聖書は言っていないのです。主イエスご自身が、たった一人の死を前に声を上げて泣いてくださったからです。
すぐに、この主イエスの涙に対するユダヤ人たちの感想が語られます。「ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。(36節)」、このユダヤ人たちのコメントは、間違ってはいません。確かに主イエスは、ラザロの死を前に、その姉妹と共に涙を流されました。しかし、彼らは一つだけ大きな間違いをしていました。それは、「どんなにラザロを愛しておられたことか」、と愛を過去形にしているところなのです。つまりラザロが死んだ以上、イエスの愛も死んでしまった、これはそういう理解です。主イエスは、生前のラザロを愛しておられた、しかし、死がその愛さえも滅ぼしてしまった、だから彼らは、「どんなにラザロを愛しておられたことか」、とこのように過去形で言うわけなのです。そしてこの理解は、異なった立場にある者たちをも支配していました。
「しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。(37節)」、結局、死の支配の中にある、という点では、両者は同じなのです。
盲人の目を開いたのは、あくまでも彼が生きていたからであって、ラザロが死んでしまったのであれば、ナザレのイエスであっても手も足も出ない、イエスに期待されたのは、ラザロが死なないように生きているうちに手を打つことであって、死んでしまった以上もはやこれまで、これがこちら側の人たちの意見です。両者ともに、イエスを死の支配下において、死こそがこの世の支配者である、という立場なのです。そして、これは、昔も今も同じです。死を前に手も足も出ない、これが私たち人類の姿なのです。しかし、それを見事に覆すのが、次週の御言葉で実現するラザロの復活であり、それ以上に、いいえ、それを遥かに超えた主イエスキリストの復活の事実なのです。
しかし、それでもなお、地上の生涯を歩む現実において、肉体の命と永遠の命との連続性を理解しつつも、死が一つの分岐点であることは否定できません。どんなに御言葉で約束されていても私たちは死が怖いし、大切な人の死ほど悲しいものはございません。
私は牧師として何度も信徒さんの葬儀に立ち会い、大切な家族を失った方が嘆く姿に心打たれてきました。永遠の命を確信しながらも涙が止まらない、そういう姿です。
しかし、永遠の命の確信と流れ落ちる涙の間に決して矛盾はないのです。それが、「イエスは涙を流された。」、この主イエスの涙です。永遠の命の確信どころか、永遠の命の君、永遠の命そのものである主イエスが、ラザロの死を前に涙を流された。私たちが大切な家族や友人の死を前に嘆くときにこんなに慰めに満ちた御言葉が他にありましょうか。他でもない主イエスが私たちと同じように泣いてくださるのです。葬儀の席で声を上げて泣くのは恥ずかしいので多くの方がこらえています。しかし、イエスは声を上げて泣いてくださる方である、このことを覚えておきたいのです。
さらに、先ほど確認しましたように、愛は、人の死とともに滅ぶものではないのです。信仰者として、主イエスに結び付けられている以上、地上を去った大切な家族や友人に対する愛は、決して滅びません。キリスト者である以上、家族の愛は過去形ではないのです。死が両者を切り離しても、現在進行形の愛で、結び付けられ、終わりの時、キリストの日に、その愛は完成するのです。私たちの復活の希望というのは、このように非常に内容が豊かなのです。
大切な人が地上を去った時、「ああしてやればよかった、こうしてやりたかった」「もっと美味いもの食わせてやりたかった」、これはキリスト者でも思うことであります。あるいは父や母の作ってくれた料理を思い出したり、仕舞いにはその欠点さえ愛おしく思えるものです。しかし、必ずもう一度、しかも次は永遠という時間の中で、罪も汚れも取り去られた状態で共に生きることが許されている、ここにも永遠の命の希望がございます。パウロは、テサロニケの信徒たちに、すでに地上を去った人たちに対する希望をはっきりと語っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(Ⅰテサロニケ4:13、14)」涙を流してもいいのです。わんわん泣いても問題ない。イエス様が泣いてくださるのですから。しかし、嘆き悲しむ必要はございません。私たちの涙には希望の光があるからです。