2024年09月01日「わたしは復活であり、命である」
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わたしは復活であり、命である
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~27節
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聖書の言葉
17節 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18節 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19節 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
20節 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21節 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22節 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
23節 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
24節 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
25節 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26節 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
27節 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ヨハネによる福音書 11章17節~27節
メッセージ
説教の要約
「わたしは復活であり、命である」ヨハネ福音書11:17〜27
本日の御言葉から、ラザロの復活の記事の起承転結の2番目の段落に入ります。この聖書箇所は、イースター礼拝や、教会の葬儀に用いられる非常に大切な御言葉でありまして、キリスト者の復活をこれ以上に明確に約束しているところは見当たりません。私たちの復活信仰の根拠がここにございます。
ラザロの死を悲しむマルタに主イエスは、「あなたの兄弟は復活する(23節)」とストレートに言われました。しかし、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております(24節)」、と変化球で返答します。それは、「あなたの兄弟は復活する」、と言う主イエスの言葉に対して彼女は自分の可能な範囲で理解しようとしているからです。マルタは、主イエスが言われたこの復活を、終わりの日の復活に限定してしまっているのです。この終わりの日の復活というのは、当時のユダヤ教の一般的な復活信仰でした。マルタは、そのユダヤ教の限界に主イエスの言葉を閉じ込めて、ここで返答しているのです。ですから、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」、このマルタの言葉に信仰的な力はございません。悪く言うと、聞いたふうな口を利いているだけで、これはユダヤ教の復活思想のステレオタイプにすぎないわけです。
今、マルタとラザロとの間にはどれくらいの距離感がありましょうか。そこには、気の遠くなるような隔たりがあるように思えます。そして、これが思想程度の復活理解における死んだ者と残された者との距離感です。私たちの国は基本的に無神論が中心でありますが、それでも天国があることを信じている方は少なくありません。死んでしまった大切な人がきっと天国で寛いでいる、と信じてなんとか悲しみを和らげるようにしているわけです。しかし、そこにはやはり大きな隔たりがあります。それは、どれもこれも思想であって真理ではないからです。
しかし、ここで、主イエスは、「わたしは復活であり、命である(25節)」、と宣言されます。これは今までも何度か確認してまいりました、生ける真の神の称号である「わたしはある」と訳されるギリシア語の「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」 が使われて、キリストの存在が明確にされている表現です。今までも「わたしは世の光である」、「わたしは命のパンである」、と「わたしはある」と訳される「エゴーエイミー」 に補語がプラスされて示されてきた定式です。その「わたしはある」シリーズの頂点にあるのが、この「わたしは復活であり、命である」、と言うこのキリストの宣言です。キリスト教の復活は思想ではないのです。イエスキリストこそが、復活であり、命そのものである、この信仰に立って生きるのがキリスト者です。
さらに主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、と続けます。当然のことではありますが、死と生と言うのは正反対の概念で両者は、はっきり区別されなければなりません。生きている者は死んではいないし、死んでいる者は生きていない、これがこの世の常識です。しかし、ここで「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、と宣言する時、主イエスはその命と死との関係を見事に打ち破っているのです。当然、ここでいう命と死は、生物学的な、肉体的な命と死ではなくて、聖書的な命であり、聖書的な死です。肉体的に生きていても主イエスを信じないのであれば、それは聖書的には死んでいるのであり、肉体は死んでいてもそれが信仰者であれば、生きている、と言うことなのです。大切なのは主イエスを信じているかいないのか、それでその人が生きているか死んでいるかが決まる、これはそういう意味です。ですから、続く「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(26節 )」、の「決して死ぬことはない」、と言うのも単に肉体的な死を言っているのではありません。私たちキリスト者であっても肉体の死は必ず経験します。しかし、その肉体の死は、決定的な死ではないと言うことなのです。
実は、この節では大切な言葉が一つ訳されていません。ギリシア語の本文では、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」、その後に「永遠に」と言う言葉が置かれていまして、決して永遠に死ぬことはない、とここで主イエスは約束してくださっているのです。わかりやすく言い換えてみれば、肉体の死は永遠の命の入り口である、そういう理解です。
ここでポイントとなる字が、「わたしを信じる者」、とあります「を」と言う接続詞です。これは「〜の中に」、と言う意味を持っていまして、つまり、「わたしを信じる者」、と言うのはキリストの中に入ってしまった者であり、これはキリストとの結合を表す表現なのです。ですから「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」、これは生きていようが死んでいようが、キリストに結合されている以上、生きていることには変わりがないと言う意味なのです。マルタとラザロの間には、復活思想がこしらえた大きな隔たりがありました。しかし、主イエスは今その両者の隔たりを壊してしまったのです。肉体的に生きていても死んでいても主イエスを信じる、すなわち、主イエスに結合している以上、両者の間に隔たりはないのです。私たちの群れの中から天に召された信仰者は、天という遠い空の向こうに飛ばされたわけではないのです。今も尚、主イエスにあって、私たちは結びついているのです。天上の教会と地上の教会は主イエスによって結合され、一つのキリストの体を形成しているわけです。これが「生きていてわたしを信じる者」、この私たち信仰者の立場です。
さて、「このことを信じるか」、と問われたマルタが回答します。「マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。(27節)」、大変立派な信仰告白です。しかし、マルタがこの告白通りの信仰を持っていたかと言えば、それは怪しいでしょう。この後、実際主イエスがラザロを復活させるために墓石を取り除くように命じた時、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます(11:39)」とそれに反対したのがこのマルタだからです。そして、実にこれが私たち信仰者のありのままの姿ではないでしょうか。信仰とは常に不信仰との戦いであって、私たちの中で、信仰と不信仰が縄張り争いをしている、これが信仰の現実です。主よ、信じます、と告白した瞬間に不信仰との戦いが始まっているのです。洗礼を受けるかどうか迷われる方がおられます。しかし、もし、私の信仰はまだ弱いとか足りないとか、そのように思っておられるのなら、安心して受けていただきたいのです。信仰的に自信があって洗礼を受ける方はおられません。逆です。自信がないから、ただ主イエスに縋るしかないから、洗礼を受けるのです。しかし、洗礼を受ける前と受けた後では、確実に変わることが一つございます。それは、客観的に永遠の命に歩み始めた、と言う事実です。私たちが疑おうが迷おうが、永遠の命の約束は確実なのです。それは、「わたしは復活であり、命である」、この主イエス様と結びついたからです。私たちの状況がどうであろうが、「復活であり、命である」主イエスに結合されている以上、私たちが永遠の命に生かされていることは何ら変わりがないのです。大切なのは、これが教会の中で実現していることです。「わたしは復活であり、命である」、この永遠の命に生かされた者の喜びが教会に満ち溢れていることです(讃美歌529)。