2024年08月11日「神の栄光のため」
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神の栄光のため
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ヨハネによる福音書 10章40節~11章4節
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聖書の言葉
40節 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。
41節 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」
42節 そこでは、多くの人がイエスを信じた。
1節 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
2節 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
3節 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
4節 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
ヨハネによる福音書 10章40節~11章4節
メッセージ
説教の要約
「神の栄光のため」ヨハネ福音書10:40〜11:4
本日私たちに与えられた御言葉は、10章と11章の繋ぎ部分である10:40〜42を通って、そのままラザロの復活の記事が描かれている11章の導入部分とも言える11:1〜4に入っていく箇所です。今回は、この二つの箇所に分けて簡潔に説教の要点を記します。
①10:40〜42 (10章と11章の繋ぎ部分)
ここでは、都エルサレムから、ヨルダンの向こう側にあるヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行かれて滞在された主イエスのお働きによって、洗礼者ヨハネの働きが、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。(41節)」、と回想されてします。「ヨハネは何のしるしも行わなかった」、と人々が評価しますように、洗礼者ヨハネは、これといった特別な働きはしなかったのです。そこで、人々が口を揃えて言ったことは、「彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」、これでした。つまり洗礼者ヨハネが、主イエスについて証言したことはことごとく正しかった、とここで人々は思い返しているわけです。実に、これが福音宣教者の務めではないでしょうか。特別な働きなど求められていないのです。ただ、主イエスについて正確に語ること、これが福音宣教者と言われる牧師を含めた全ての伝道者に求められているのです。
さらに 「そこでは、多くの人がイエスを信じた」、と記録されているところが重要です。つまり、ヨハネが、主イエスについて話したことは、すべて本当だった、この伏線があって、「そこでは、多くの人がイエスを信じた」、という状況が生まれているのです。ヨハネはすでにこの世を去っています。しかし、彼の働きは残っているのです。ヨハネが正確に主イエスを証言したことが、彼の死後も人々が主イエスを信じるために機能しているのです。ここにも福音宣教者の希望があるのではないでしょうか。主イエスを宣教する時間は短いのです。もっと働きたい、と願っても、誰一人自分の力で1日でも肉体の命を伸ばすことはできません。しかし、たとえこの地上の命が取り上げられても、その証は残る、これは喜びであります。主イエスについて正確に証言する以上、その働きは、地上を去った後も用いられるのです。これは、牧師や伝道者、といった御言葉の役者と呼ばれる者だけの特権ではないはずです。キリスト者である以上、必ずわが主を証する時が与えられるからです。その時聖書は「上手にやれ」なんて一言も言いません。上手い下手はどうでもいいのです。下手くそでも本当のことを言えばいいのです。「十字架のイエスが復活した」、「イエスは私の主である」、「主イエスは必ずいらっしゃる」、それで十分ではないでしょうか。「彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」、それは一人のキリスト者が、その信仰生活の中で、十字架の主イエスを証したときに加えて与えられる栄誉であります。そして、それは、私たちが地上を去った後も用いられる言葉となるのです。
②11:1〜4(ラザロの復活導入部分)
ここでは、ラザロという主イエスの友が重い病にあることが、その姉妹のマルタとマリアから主イエスの元に伝えられたことが契機になって出来事が展開していきます。この姉妹たちの要請に対して、主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。(4節)」、と回答します。これは、9章で描かれていた生まれつき目の見ない人のその目の見えない理由について主イエスが言われたことと一致します。「弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(9:2、3)」、ここでは、生まれつき目が見えないこの人のその不幸の原因が罪にあるのか、と問われて主イエスは、そうではなくて、これは、「神の業がこの人に現れるためである」、とされました。この不幸の原因は、罪ではなくて、神の業がこの人に現れることにある、と主イエスは言われたのです。
本日の御言葉の場合も同じ法則で、主イエスは、この病気は死で終わるものではない、とこのラザロの重い病の原因を死と見るのではないのです。そうではなくて、神の栄光のためである、とこの病の原因を神の栄光に見ておられるのです。ここに、キリスト教の強さが象徴されているのではないでしょうか。
一人の人が生きていくというのは大変なことです。これは、キリスト者であろうがなかろうが、同じだと思うのです。洗礼を受けて信仰を持って歩み出した途端に、全ての災いから無縁になるなんてことはありません。むしろ、キリスト者になってから多くの困難を与えられている方が多いのではないでしょうか。例えば、勤めていた会社が潰れてしまい、経済的困窮を味わう。家族や友人との関係で悩む、このようなものは全てキリスト者にも与えられる苦難です。しかし、これらは全て自分の罪とか、運が悪いからとか、そのようなものが原因なのではないのです。あるいは、重い病を患い、生涯それと付き合いながら生きていく、これはとても辛いことです。しかし、キリスト者である以上、その原因は死とは無関係であることが約束されているのです。どんなに重い病であろうと、たとえ余命宣告をされようと、それさえも神の栄光のためである、これが私たちの立場であり、これ以上ない慰めです。
この前、講壇交換で坂戸教会に遣わされました時に、坂戸教会の皆様と一人の信仰者の生きた道を分かち合いました。それは、坂戸教会から、私たちの高島平キリスト教会に遣わされた長老さんです。この長老さんは、およそ15年間、重い病を患い、それでもなお信仰者として精一杯生きて地上の生涯を全うし、天へと帰られました。しかし、そこにはいつも喜びがあり、未熟な牧師のためにいつも細かい配慮をしてくださっていたことを思い出します。この長老さんは、与えられていた病でさえ、主なる神の賜物であると理解されていたのでしょう。病もキリスト者のタラントなのです。
いよいよ、弱り果てて、入院されていたその病床で尚、明日への希望に輝いていた目を私は何年経っても忘れられません。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」、まさにこの御言葉がそこに立ち上がっていました。この長老さんが天の国に行かれて多くの時間が過ぎています。しかし、その生きた証は今も健在です。寡黙な方でありましたが、「彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」、これはその生き様によって証言されていたのです。
キリスト教は、思想ではないのです。私たちの日常生活の現実の中で発揮される力、それがキリスト教です。今、私たちの群れの中で苦難の中にある方がおられます。年齢を重ね弱さを覚えておられる方、病と闘いながら信仰生活を続ける方もおられる。しかし、それらも全て、神の栄光のため以外ではないのです。地上を歩む時に、私たちを襲うあらゆる不幸が、神の栄光のためである、これが私たちの立場であり、私たちの大きな慰めであります(讃美歌506)。「この病気は死で終わるものではない」、これはおよそ2000年前に、主イエスがラザロに語った言葉です。しかし、その時間を超えて、この同じ御言葉が他ならぬこの私に向けられている、ここに御言葉の力があるのです。