ここで、「神の子」、という度々見られる称号が出てまいりますが、ギリシア語の本文で通常使われる「神の子」、というのは、定冠詞がついていまして、英語で言いますとThe son of Godになります。 このヨハネ福音書では、「神の子」という表現が9回使われていますが、そのうちの7回は、この定冠詞付きの「神の子」、英語で言いますThe Son of Godになっています。この場合、文字通りその称号としての「神の子」であります。しかし、この節の「神の子」は、その定冠詞がつかない珍しい形になっていまして、新しい英語の聖書の中には、ここをThe Son of God ではなくて、God’s Sonと訳すように変えているものもございます。ですから、ここで主イエスは、ご自身を世間一般で使われる呼び名としての「神の子」を用いて、称号として『わたしは神の子である』と言われているのではなくて、まさに天の父との現実的な親子関係で、『わたしは神の子である』と言われているのです。
実は、この同じ身分を受け継いでいるのが、私たちキリスト者であるのです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(17:17〜19)」、ここで、「父から聖なる者とされて世に遣わされた」この主イエスが、「彼らを聖なる者としてください」、と祈って、その上で、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」、と続けるのです。これがイエスの弟子である私たちの立場なのです。ですから、 「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか」、これは、私たちキリスト者の主張でもあるのです。「父から聖なる者とされて世に遣わされた」主イエスが、私たちを聖なる者として、この世に遣わしてくださったからです。だから、私たちこそは、「神の子」であります。しかも、ただの抽象的な称号としての神の子ではございません。私たちもまた、The Son of God ではなくて、God’s Son、この現実の中で天の父の子とされているのです。
「イエスは神の子」ヨハネ福音書10:31〜39
先週の御言葉の最後で主イエスは、「わたしと父とは一つである。」、とユダヤ人たちに宣言いたしました。それに対して、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた(31節)」、とこのようにユダヤ人たちは、再度主イエスを殺そうとしました。ユダヤ人たちも「善い業のことで、石で打ち殺すのではない」、と主イエスが善い業をされていることは認めていました。しかし、「神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ(33節)」、これを、イエスを石で打ち殺す理由にしています。主イエスは、「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている(25節)」、とご自身が行ってきた御業が、まさにご自身が何者であるかを証言していることを明確にされました。しかし、ここでユダヤ人たちは、主イエスの御業と主イエスがどなたであるかを切り離してしまっているのです。そもそもこれが滅茶苦茶な発想でした。
病人を癒すから彼は医者なのです。人を殺めるからその人は人殺しとして裁かれるのです。その人の行いとその人の正体は一致するはずです。主イエスは、そもそも神の御子に他ならないのですが、頑ななユダヤ人たちに歩み寄って、この世の論理に照らし合わせても、天の父の業を行っているから、神の御子なのです。ユダヤ人たちは、「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」、これを、主イエスを殺す理由にしました。実は、これ全くもって逆なのです。主イエスは、人間から神になったのではない。神が人となってくださった、それが主イエスなのです。これは、このヨハネ福音書のプロローグで真っ先に示される真理で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(1:1)。」、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(1:14)。」と謳われている通りです。
そして実に、「イエスは神の子」である、これを証言したのが、福音書と呼ばれる4つの書物であります。福音書の中で、最初に書かれたとされるマルコ福音書は、まさにこの宣言から始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコ1:1)」、これがマルコ福音書の表題であり、この福音書の内容の要約です。そして、福音書の中で最後に執筆されたと言われるこのヨハネ福音書のその執筆目的も「イエスは神の子」である、この証言です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ20:31)」、この通り、「イエスは神の子メシアである」、これこそが、すべての福音書が証言している真理であり、これを宣言するのが、その執筆された目的です。ですから、主イエスご自身が、「わたしは神の子である」、と証言しています本日の御言葉は、非常に重要であるわけです。
ここから二つの大切な真理を確認したいと思います。
一つは、主イエスがここで言われた、この「わたしは神の子である(36節)」、この表現なのです。
ここで、「神の子」、という度々見られる称号が出てまいりますが、ギリシア語の本文で通常使われる「神の子」、というのは、定冠詞がついていまして、英語で言いますとThe son of Godになります。 このヨハネ福音書では、「神の子」という表現が9回使われていますが、そのうちの7回は、この定冠詞付きの「神の子」、英語で言いますThe Son of Godになっています。この場合、文字通りその称号としての「神の子」であります。しかし、この節の「神の子」は、その定冠詞がつかない珍しい形になっていまして、新しい英語の聖書の中には、ここをThe Son of God ではなくて、God’s Sonと訳すように変えているものもございます。ですから、ここで主イエスは、ご自身を世間一般で使われる呼び名としての「神の子」を用いて、称号として『わたしは神の子である』と言われているのではなくて、まさに天の父との現実的な親子関係で、『わたしは神の子である』と言われているのです。
そして、実は、もう一箇所だけこの定冠詞のつかない「神の子」という表現が使われるところがあるのです。それは、主イエスキリストを十字架につける法廷の場面で見られるのです。「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。(19:7)」、ここで、ユダヤ人たちが、「神の子と自称したからです」、とポンテオピラトに訴えているこの「神の子」の部分も、冠詞なしの「神の子」という表現が使われているのです。
ですから、ここでもイエスが、定形的な呼び名として「神の子」と言ったのではなくて、天の神を我が父として「神の子」と言った、とユダヤ人たちは告訴しているわけです。そして、彼らは、最終的にこれを、主イエスを十字架につけるための口実にしているのです。本日の御言葉で主イエスが言われた『わたしは神の子である』、直接的にこれがイエスキリストの十字架を決定づけたわけです。
神の御子キリストは、その真理を証言したので、十字架につけられた、これがこの福音書が証言するイエスキリストの十字架なのです。本日の御言葉はこの十字架の場面に直結しているわけです。
もう一つは、同じこの節の、「父から聖なる者とされて世に遣わされた」、この主イエスの立場です。
実は、この同じ身分を受け継いでいるのが、私たちキリスト者であるのです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(17:17〜19)」、ここで、「父から聖なる者とされて世に遣わされた」この主イエスが、「彼らを聖なる者としてください」、と祈って、その上で、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」、と続けるのです。これがイエスの弟子である私たちの立場なのです。ですから、 「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか」、これは、私たちキリスト者の主張でもあるのです。「父から聖なる者とされて世に遣わされた」主イエスが、私たちを聖なる者として、この世に遣わしてくださったからです。だから、私たちこそは、「神の子」であります。しかも、ただの抽象的な称号としての神の子ではございません。私たちもまた、The Son of God ではなくて、God’s Son、この現実の中で天の父の子とされているのです。
(説教の中で詳しく確認しましたが)旧約時代に、神に属する働きをしていた神の民の指導者は、「神々」と呼ばれ聖別されていました。これは大変名誉なことであったはずです。しかし、私たちは、そのような「神々」とはレベルが違うのです。もはや比較しようもないくらいに優遇されているのです。イエスキリストに結び付けられて、私たちも神の子という身分が与えられているからです。これは使徒パウロが多くの箇所で証しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:26、27)」、この通り洗礼を受けてキリストに結ばれた日から、私たちは、キリスト・イエスに結ばれて神の子である。
今日一人の兄弟に洗礼が授けられました。ここにまた新たに神の子が誕生したわけです。朽ちるはずであった古い私たちが、キリストの十字架と共に滅ぼされ、新しい命、永遠の命に歩み始める、この洗礼の喜びに、そして主イエスキリストの十字架の愛に、改めて奮い立とうではありませんか。