2024年07月14日「永遠の命の掟」

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17節 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
18節 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
19節 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
20節 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
21節 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
ヨハネによる福音書 10章17節~21節

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「永遠の命の掟」ヨハネ福音書10:17〜21

本日与えられた御言葉では、このヨハネ福音書の10章に記録されています2つ目の譬え話の結論と、そして、それによって引き起こされたユダヤ人たちの反応が記されています。

 この譬え話の結論部分で、「 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。(18節)」、と主イエスは言われます。ここでは、主イエスの十字架の死が極めて積極的に示されています。前の節から、命、という字が使われていますが、この命という字は、魂、という意味が強くて、これは肉体的な命だけでなく、霊的な命も含めた聖書的な命という理解です。それゆえに、ここで、「わたしは自分でそれを捨てる」、と主イエスが言われますとき、これは只事ではないことがわかります。主イエスの十字架の死というのは、肉体の死だけではないのです。そうではなくて主イエスは、十字架で魂の死さえも経験されたのです。肉体の死の後に待ち受けている魂の死、聖書的な死、実は、これが本当に恐ろしいのです。

 度々ご紹介してきました私たちの日本キリスト改革派教会の創立メンバーの一人であります岡田稔先生は、この死の恐ろしさについて次のように述べています。「死!なんたる強敵ぞ、だがまだそれでは終わらない。死後には何があるのか。人がそれを信ずると信じざるとに関わらずそこにこそ最も徹底した罪の総決算が控えておるのだ。死が何故それほど恐ろしいのであるか、死の真相は実に罪に対する刑罰としての永遠の地獄の存在である。(いのちのことば社・岡田稔著作集Ⅰキリスト教P95)」、その通りではないでしょうか。死が全ての終わりなのでしたら、空しくはあれ、そこに恐怖はどれほどありましょうか。実は、私たち人類にとって、死が終わりではないから恐ろしいのです。

 「死は終わりじゃない」などという抽象的なフレーズは巷に溢れています。しかし、その具体的な真理が説明されない限り、これは何の慰めにもならないのです。むしろ恐怖でしかないのです。

神に創造された人間は、死が終わりではないという知識がその魂に刻み込まれています。それは人間の科学など太刀打ちできない真実です。だから、人は死を恐れ、その恐怖から逃れるために、手当たり次第に宗教を探し平安を求めるのです。宗教を持たない民族はないと言いますが、これも人間が神に創造された一つの証拠でありましょう。しかし、堕落した人間は、真の神にすり替え、偶像崇拝を続けるようになってしまったのです。神の御子以外に、これを解決できる者はいないのにも関わらず、そしてその救いが目の前に差し出されているのにも関わらず、人々はそれを拒んでいる、これが私たちを取り巻く現実です。その暗闇の中で、私どもは十字架の宣教を続けているのです。その中心が、「この恐ろしい死、永遠の死を主イエスは私たちに代わって十字架の死よって味わってくださった」、このことです。だから私たちはこの恐ろしい死から解放されたのです。

そればかりか、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」、と主イエスが言われていますように、その後に復活があるのです。他でもない神の御子が最も恐ろしい死を味わってくださり、そしてその神の御子が、その死から永遠命の初穂となって復活してくださった。これが、「わたしが父から受けた掟である」、と主イエスは言われるわけです。ここで、「父から受けた掟である」、とありますこの掟という字は、規定、あるいは定めと訳すことも可能です。十字架と復活の規定、その法則が、今まで語られた譬え話の結論として、ここで鮮やかに提示されているわけです。

実は、この積極的な主イエスの十字架と復活の理解が、この後さらにわかりやすく説明されている箇所があります。「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(12:23〜25)」、これです。ここに主イエスの十字架と復活の積極的な意味が見事に集約されています。主イエスが十字架で死んでくださることによって、「多くの実を結ぶ」、この実というのは永遠の命の実りであります。主イエスを信じる多くの罪人が、永遠の命というこれ以上ない実りを、この報酬を受けるために、主イエスは積極的に十字架の死を選んでくださった。

同時に、この主イエスの恩恵によって永遠の命が与えられる私たち信仰者に対してもここでは勧告がなされています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」、この御言葉です。ここでは、「自分の命を愛する者」と「自分の命を憎む人」という二つの立場が登場してきます。誤解してはならないのは、前者が自分の命を大切にする者で、後者が逆に自分の命を粗末にする人である、ということではないということです。命は主なる神から与えられたかけがえのないものであり、それを粗末にするなんて理解は聖書にはありません。ここで繰り返し使われている命という字も、肉体だけでなく霊的な命も含めた聖書的な命です。ですから、「自分の命を愛する者」というのは、霊肉共に罪人である今の自分のままでいる者、その自分に満足し、あるいは妥協し、悔い改めない者、そういう理解です。逆に、「この世で自分の命を憎む人」、これは、自分の肉体と魂の汚れを認めて悲しみ、そして悔い改める人に他なりません。つまりこれは悔い改めなさい、という勧告なのです。主イエスの積極的な十字架の死の実りをいただく私たちに求められるのは、悔い改めて主イエスに従うことである、このことがここでは確認されているのです。

それにもまして、今日特に注目したいのは、ここでは、十字架を目の前にした主イエスが、「人の子が栄光を受ける時が来た」、と言われているところです。以前確認しましたように、このヨハネ福音書は、主イエスが最も低くなられた十字架の死から、主イエスの栄光は始まっていると理解しています。これは、主イエスによって永遠の命に与る私たちに対しても大きな慰めとなるのではないでしょうか。私たちも肉体の死の後に栄光が与えられるのではないのです。私たちがキリスト者である以上、実に、この地上におきまして最も辛い状況にある時から私たちの栄光は始まっている、これがこのヨハネ福音書の御言葉が私たちに示す真理だからです。

私たちが最も惨めな状況、それは今である、という方もおられましょうか。あるいは、やがて必ず訪れる死の床にあってはどうでしょうか。身動きも取れず意識さえ朦朧となるその瞬間、これ以上に弱く惨めな状態はないと思います。しかし、そこからも私たちの栄光は始まっております。大切な家族や友人、そして私自身がキリスト者である以上、死の床でさえ、勝利の歌を口ずさむことが許される栄光の時です。最も弱く惨めな姿から私たちの栄光は始まっている、実にこれが永遠の命の掟です。

私たちにとって死は永遠の命の入り口であり、非常にポジティブな視点でそれを展望することが許されるのです。途中で死が終わりではないから恐ろしいのだ、と申し上げました。その通りであります。しかし、キリスト者の場合、これが見事に逆転いたします。今朝は、最後に「死は終わりではないから希望があるのだ」、と確認してここから遣わされましょう。