2024年07月07日「わたしは良い羊飼いである」

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わたしは良い羊飼いである

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章11節~16節

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11節 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12節 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
13節 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14節 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

15節 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16節 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書 10章11節~16節

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説教の要約

「わたしは良い羊飼いである」ヨハネ福音書10:11〜16

先週から、このヨハネ福音書の10章に記されています二つ目の譬え話に入っていきました。

主イエスは、本日の御言葉で、改めてご自身を喩えて「わたしは良い羊飼いである」、と宣言いたします。そして、どうして、主イエスが良い羊飼いであるのか、それが、真っ先に、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、と定義されます。これは、結論から言えば、主イエスがご自身の十字架を予告したものであり、その十字架がキリストの羊である信仰者である私たちを贖い、永遠の命を与えることになることの約束であります。主イエスは、この十字架の救いを当時の羊飼いたちの姿に置き換えて、わかりやすく譬えているわけです。

 さらに、主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」、と再度宣言され、その理由として、今度は、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている(14節)」、とされます。

ここで「羊」、という字が繰り返されていますが、文法的に、これらはいずれも冠詞付きの単数系でありまして、この「羊」が、かけがえのない一匹の羊であることが強調されています。

主イエスは、ご自身の羊を羊の群れという単位で知って下さっているのではないのです。そうではなくて、私という一匹の羊を知って下さっている、しかも、かけがいのない存在として知って下さっているのです。これは、10章に入ったばかりに主イエスが、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す(3節)」、と言われていることの繰り返しでもあります。

 しかし、ここでは、それ以上の関係が示されています。ここで、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」、と知る、という字が繰り返されています。以前確認したことがありますが、この知るという言葉は、このヨハネ福音書におきまして、最も親しい交わりの関係を示します。単に知識として理解する、という意味ではなくて、現実的な関係でお互いを知り尽くす、愛し通す、そういう意味です。そしてこれは次の節でさらに強化されます。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。(15節)」、ここでは、前の節の「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」、この主イエスと一人の信徒との関係が、そのまま、天の父と主イエスとの関係に置き換えられています。これは実に驚くべき御言葉です。御父と御子主イエスとの関係は、天地創造の前からの永遠の愛の交わりに他なりません。その両者の関係が、主イエスと一信徒である私との関係と同じである、とここでは言われているからです。

 たった一人のキリストの羊であるこの私、なんともつまらない罪人であるこの私を主イエスは、御父と同じ、これ以上ない永遠の愛の関係で交わってくださっている。さらに主イエスによって私たちは、天の父ともこれ以上ない親しい関係が与えられているわけなのです。これが、いかに偉大な真理であるか、しばし思い巡らしたいのです。

 そして、さらに「わたしは羊のために命を捨てる」、とすでに11節で一度示されたこの主イエスの十字架の愛がここで繰り返されています。父なる神様と主イエスとの永遠の愛の関係、これ以上ないこの麗しい両者と同じ関係を主イエスは、この私たちとも結んでくださる、と約束してくださいました。しかし、だからこそ、主イエスは十字架で死んでくださったのではありませんか。神の御子の十字架によって、私たちの罪が帳消しにされなければ、私たちが主イエスと、そして天の御父と永久の愛の関係に生きることなど到底できなかったからです。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」、だから主イエスは十字架についてくださったのです。

結局、私たちは愛しかいただいていないのです。しかも、私たちは、十字架の血によって罪許されたのにもかかわらず、依然として罪を犯さない日は一日もなく、罪を重ねながら歩んでいます。罪しか犯さないこの私に、主イエスは、愛以外差し出されない、罪を犯して道に迷うこの私を主イエスは忍耐を持って常に導いてくださる、だから私たちの信仰生活は成り立つのです。私たちは愛しかいただいていないのです。主イエスと私たちとの関係は、常に愛と罪との交換で成り立っているのにも関わらず、主イエスは私たちに愛しか与えられないのです。

 この主イエスの愛には、さらなる広がりがあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)」、ここで、主イエスは、「この囲いに入っていないほかの羊もいる」、と言われます。「この囲い」、というのは、救われる者たちの集まるところであり、今で言いますと教会に他なりません。さらに、ここで、「ほかの羊もいる」、とあります、「いる」、という字は、単にその存在について明確にされているだけではありません。これは、「持っている」、あるいは「支配する」、と通常訳される言葉で、つまり囲いの外にいる羊は、キリストと無関係に存在しているのではなく、キリストの所有物である、そういう意味なのです。

 その上で主イエスは、「その羊をも導かなければならない」、と言われます。この「導かなければならない」、という表現は、ギリシア語の本文では、神のご計画に基づく必然を強調する言葉が使われていまして、「導くことになっている」、そのくらいのニュアンスです。さらに、「その羊もわたしの声を聞き分ける」、と追加されます。つまり、今は教会の外にいて、キリストと無関係に生活を続けておられる方であっても、キリストの羊である以上、必ずキリストの言葉を聞き分け、信仰が与えられ、教会へと導かれることになっている、これがここで示されている真理なのです。なんと私たちの福音宣教に力を与えてくれる御言葉でありましょう。キリスト教が低迷している、伝道不振が続いている、それが問題ではないのです。大切なのは、その中でもキリストの羊は必ず救われることになっている、この主なる神様の決定であります。

 その上で主イエスは、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」、と結論づけられます。この部分、ギリシア語の本文をそのまま訳しますと、「彼らは一つの羊となる、一人の羊飼いによって」、とこのようになります。多くの羊が一つの羊になる、そして、それを導く一人の羊飼いがおられる、これが教会の姿であります。

 本日、私たちは、この後、聖餐式に与ります。この聖餐式が、とりわけ「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」、この教会の姿が具体的に実現する時であります。私たちは、多くいても一つの体である、このキリストの羊の共同体、永遠の命の宴がここにございます。

 羊は目が悪く、方向音痴で、飼い主がいなければ生きていけない弱い生き物です。まるで、私たちのようではありませんか。しかし、私たちのために命を捨てた十字架の主イエスがここにおられます。その主イエスは、天の父とご自身の間にある永遠の愛の交わりと同じ交わりに与る者として私たちを加えてくださいました。まさに、神はわがやぐら(讃美歌267番)、そして、主はわが飼い主(讃美歌354番)、ここにだけ、私どもの平安があります。