2024年06月30日「宣教者の務め」

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7節 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8節 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9節 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10節 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
ヨハネによる福音書 10章7節~10節

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「宣教者の務め」ヨハネ福音書10:7〜10

本日の御言葉は、前の箇所で主エスが語られた羊の囲いの譬えをさっぱり理解できなかったファリサイ派の人々にあらためて語られた譬え話です。

ここで、「わたしは羊の門である(7節)」、と主イエスが言われます。これは、わかりやすく言い換えれば、主イエスが救いの入り口である、ということで、主イエスという門を通らないで救われる者は、一人もいない、そういう意味です。

そして、これはこの後14章で、再び主イエスによってさらに具体的に宣言されています。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」この通りです。主イエスだけが、父のもとに行くための道であって、その主イエスを通らなければ救いはありえないのです。

逆に、この唯一の救いである主イエスという門とは無関係にキリストの羊に接近する者たちが示されます。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。(8節)」この「わたしより前に来た者」、これはギリシア語の本文ですと非常に意味が深くて、後でまた確認しますが、直接的には、この譬えが語られているファリサイ派の人々や、当時のユダヤ教の支配者であった祭司長やその取り巻きでありましょう。あるいは、英語ではBefore meと訳されていますように、この時代に多く出現した偽メシアも含まれているのだと思われます。主イエスが世に来られる少し前から、ユダヤ社会は、空前のメシアブームでありまして、我こそはメシアである、と吹聴する輩が後を絶たなかったのです。

さらに、主イエスは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。(9節)」、と同じ真理を繰り返した上で、「その人は、門を出入りして牧草を見つける」、と追加されます。この門というのは、キリストそのものであり、キリストの体である教会の門とも言えましょう。

すなわち、教会の中にだけ牧草がある訳ではないのです。週ごとの主日礼拝は、私たちの信仰生活の中心であり、福音宣教の中心でもあります。ここにこそ、牧草に喩えられている私たちの命の糧がございます。しかし、「門を出入りして牧草を見つける」、とここで主イエスが言われます時、教会の門から外にも主なる神は、私たちの命の糧を用意して下さっているのです。私たちは、週日の信仰生活のあらゆる場面で、御言葉によって養われている、言い換えれば私たちにとって、命の糧である御言葉と無関係な領域は、ほんの僅かさえもないのです。

あるいは、この「牧草」という字は、「牧場」とも訳せます。教会はキリストの牧場であります。しかし、教会の門から外にも主なる神はキリストの牧場を作ってくださる方です。キリスト者が二人、三人、と主イエスキリストの名によって集まる場所には、必ずキリストがその中におられ、そこはキリストの牧場となるのです。私たちは、内向きではなく、外に向かってキリストを証言するために用いられている、「その人は、門を出入りして牧草を見つける」、これはそれを支持する大切な御言葉です。

その上で主イエスはさらに大切な真理を示されます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)」、この永遠の命の約束です。

ここでは、「受ける」という字が繰り返されていまして、これは、ギリシア語の文法で接続法という特殊な動詞の用法が使われ、しかもその時制が現在形で、その場合、継続した状況が示される表現になります。ですから、ここは正確には、「羊が命を受け続けるため、しかも豊かに受け続けるためである」、という訳になります。さらにこの「豊かに」、という字は、有り余るほどに、必要以上に、と訳せるくらいの豊かさです。これが、キリストが来られた目的である、というわけなのです。

 主イエスは、私たちキリストの羊が、永遠の命を有り余るほど受け続けるためにいらしたのです。私たちには、永遠の命など受ける資格などこれっぽっちもございません。永遠の命というのは、ただキリストの憐れみによって与えられるもので、神の御心によって一度与えられた以上、決して奪われることがない驚くべき恵の賜物です。

 しかし、それ以上なのです。永遠の命というのは、常に与えられ続けるものである、それは、有り余るほどに注がれ続けるものである、そう主イエスは言われるのです。私たちの信仰生活の糧として与えられる主イエスの言葉そのものが永遠の命であるからです。偽者の羊飼いと何と違うことでありましょうか。それは天と地ほどにかけ離れているのです。

 そこで大切なのは、この偽者たちの姿が示されています8節の前半部分、 「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」、これです。「わたしより前に来た者」、これが偽者たちの共通点であるわけです。これは、前述の通り、直接的には、この譬えが語られているファリサイ派の人々や当時のユダヤ教の支配者であった祭司長やその取り巻き、あるいは、英語ではbefore meと訳されていますように、この時代に多く出現した偽メシアを指すのでありましょう。しかし、元々のギリシア語の本文で読みますと、ここにはもっと深い意味があるように思えます。ギリシア語では、ここはプロ(πρὸ)という前置詞が使われていまして、これは英語のproという接頭辞の語源になった字で、これは、projectや、productionに使われるあの接頭辞のproでありまして、この場合、beforeというように時間的に前のことだけでなく、立場的にあるいは、精神的に前を行く、むしろそういう意味が強いわけです。

 ですからギリシア語の深い意味で申し上げれば、「わたしより前に来た者」、これは、「キリストに取って代わって出しゃばった者」、このくらいのニュアンスです。

 実に、キリストよりも先に行こうとする、これが偽者なのです。そしてその対極に宣教者の務めがあります。宣教者とは、キリストの後に従う者、しかも、まるで黒子のように、福音の主役であります十字架のイエスキリストだけにスポットが当たるように勤しむ者であります。

 「〜先生の教会」、という言われ方をしばしばされますが、これは大きな間違いです。全ての教会が十字架のイエスキリストの教会であり、牧師は、他の信徒と全く同じ立場のキリストの脇役に過ぎません。その全ての信徒が、十字架の主イエスをこの世に証言するために用いられている。司式をする者、奏楽者、献金当番、献金を管理する者、祈る者、受付をする者、清掃をする者、とそれぞれの役割は違います。あるいは、闘病生活に耐えながら信仰を証される方もいらっしゃる。しかし、その全ての働きが、十字架の主イエスのために行われている、これが教会なのです。

 私たちは今、新しい会堂建築のために勤しんでいます。これも、十字架の主イエスの福音が響き渡るためであって、それ以外ではありません。

 この地に新しい教会が建てられ、その場所で主イエスによって救われ、永遠の命を受け継ぐ者が生み出される、こんなに喜ばしいことはございません。私どもは、共に十字架の主イエスを見上げ、十字架の主イエスを証言しながら、主イエスの脇役として歩み続けたいと願います。