2024年06月16日「羊飼いとその羊」
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羊飼いとその羊
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 9章39節~10章6節
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聖書の言葉
39節 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40節 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41節 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
10章1節 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2節 門から入る者が羊飼いである。
3節 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4節 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5節 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6節 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
ヨハネによる福音書 9章39節~10章6節
メッセージ
説教の要約
「羊飼いとその羊」ヨハネ9:39〜10:6
本日から、ヨハネ福音書講解説教は、10章へと入っていきます。まず、9章で記されていた生まれつき目の見えない人の目の開かれた事実を認めようとしないファリサイ派の人々に対する主イエスの説教が語られます。
ここでは、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である(1節)」、とまず主イエスは言われます。この盗人や強盗は、目の開かれた人を追放したファリサイ派の人々を指しています。彼らは、民の指導者の座に胡座をかいて、その大切な一匹の羊を守るどころか、外へ追い出してしまいました。それに対して、「門から入る者が羊飼いである(2節)」、と対照的に羊飼いが登場いたします。当然、この羊飼いが、神の民の共同体から追い出され路頭に迷っていたその人を見出した主イエス様ご自身のことです。
その上で、主イエスは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す(3節)」、と言われます。これは、実に憐れみ深い言葉ではないでしょうか。主イエスは、私たち一人一人の名を覚えていてくださり、私たちのその名を呼んで連れ出すのです。ここでは、本日の招きの詞で与えられた詩編23編の御言葉が立ち上がります。これは、「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる(詩編23:2、3)」、と古の信仰者が歌った麗しい信仰の風景です。
私たちの飼い主であります主イエスは、十把一絡げに私たちの群れを管理するのではないのです。そうではなくて、私たち一人ひとりのその名を呼んで養ってくださっている、これがインマヌエル、主共にいます、と聖書が言います主イエスと私たちとの関係なのです。
ですから、逆に、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すのに、その羊の方から返答がなかったらどうでしょうか。これほど飼い主である主イエスを悲しませることはないのではありませんか。主イエスは、信仰者である私の名を毎日呼んでくださっています。私たちは、その呼びかけに回答しているでしょうか。この御言葉から、私たちは、信仰生活に熱心さがなくなってしまう時、キリストが名を呼んでくださっても返答しない、無視している、と言う大変悲しい状態にあることをよく覚えておかなくてはならないでしょう。さらに、教会を離れている方が立ち帰るように、キリストが、その方の名を毎日呼んで下さるように、私たちも毎日その名を呼んで祈り続けたいのです。
さらに主イエスは言われます。「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。(4節)」、これが、真の教会の姿ではないでしょうか。主イエスが先立って、その群れを従え、キリストの羊は、キリストの言葉についていく、これがキリストの教会です。
ここで、「羊はその声を知っているので、ついて行く」、とあります。キリストの声、すなわち御言葉によって群れは一つの方向に向かって歩み続けるのです。キリストの言葉である聖書の御言葉が、先頭に立って群れを導き、それゆえに、キリストの羊の間に分裂は起こらないのです。全ての羊が、御言葉によって、まっすぐにキリストについていく、これが教会です。
さて、その上で、今度は、偽者について語られます。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。(5節)」、これは、3節と4節で示されたのと同じことを、その裏側の面から描いています。それによって、それだけキリストの声には、決定的な違いがある、と言うことが具体的に示されます。キリストの言葉以外に、群れを整え、従わせる力は、どこにもないのであります。9章で記されていた、主イエスに目が開かれた人が、ファリサイ派の人たちの声には従わなかった事実が、前もってこのことを証しています。彼は、ファリサイ派の人々の尋問になびくことなく、むしろ、それに耐えて、一歩も引かずにキリストに目を開かれた自分の立場を主張しました。
さて、この主イエスの説教に対するファリサイ派の人々の姿が最後に示されます。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。(6節)」、どうして、ファリサイ派の人々は、「その話が何のことか分からなかった」のでしょうか。それは、キリストの羊ではなかったからであります。「羊はその声を知っている」はずです。そして、「羊はその声を聞き分ける」はずなのです。つまり、逆に、彼らこそが、「ほかの者」であり、「盗人であり、強盗で」あると言うことです。ここで、キリストの言葉が、「何のことか分からなかった」ことによって、ファリサイ派の人々は、キリストの羊ではないことを自ら証言してしまっているのです。大切なのは、このファリサイ派の人々の姿によって、目が見えるとか見えないとか言うのは、結局、キリストの声を聞き分けられるか、聞き分けられないか、と言うことである、この真理がここで導き出されていることです。目が見えていても、御言葉が理解できないのであれば、それは盲目である、と言うことです。
本日は、「羊飼いとその羊」、と言う説教題が与えられました。そして、実に、羊飼いとその羊を結びつけるものは、キリストの声であることが、ここで鮮やかに示されていました。
3節では、「羊はその声を聞き分ける」、そして、4節では、「羊はその声を知っているので、ついて行く」、あるいは、逆に5節では 「ほかの者たちの声を知らないからである」、とこのように、本日の御言葉では、「声」と言う字がキーワードになっています。実は、この「声」と言う字は、このヨハネ福音書ですでに学んだ御言葉で決定的な真理を宣言するために主イエスご自身が用いています。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(5:24、25)」
ここで、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」、と繰り返されている、この「声」と言う字が、本日の御言葉で、「羊はその声を聞き分ける」、あるいは、「羊はその声を知っている」、と使われている「声」と言う字と全く同じです。そして、ここでは、「わたしの言葉」がそのまま、「神の子の声」であることは言うまでもありません。
つまり、ここでは、キリストの言葉の救いと命における連続性と永遠性が明確にされているのです。地上での信仰生活の基として与えられ、機能している御言葉は、すでに私たちに永遠の命と無罪の判決を約束し、生涯、そして、裁きの日に至るまで、神の子の声が、私たちの命を保証している、この決定的な約束がここで宣言されているのです。私たちキリストの羊は、飼い主である主イエスの声に従い共に歩んでいます。実は、この主イエスの声、すなわち御言葉こそが、私たちの命の根拠であり、世の終わりまで何一つ変わらない永遠の命の保証なのです。
私たちに与えられています御言葉には力がございます。それは、私たちに悔い改めと信仰を与え、私たちを生涯支え導き、そして必ずや永遠の命へと導く力であります。他のどのようなものにもこのような力はございません。共に、御言葉に養われ、御言葉に立って歩み続けようではありませんか。