2024年06月09日「見える者と見えない者」
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見える者と見えない者
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 9章35節~41節
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聖書の言葉
35節 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36節 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37節 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38節 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39節 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40節 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41節 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
ヨハネによる福音書 9章35節~41節
メッセージ
説教の要約
「見える者と見えない者」ヨハネ9:35〜41
先週の御言葉で教えられましたように、主イエスによって目が開かれた人は、目が見えるという責任を負うかのように、たった一人でユダヤの指導者たちと渡り合い、最後まで一歩も退くことはありませんでした。そして、それゆえに、この人は、ユダヤ人たちの逆鱗に触れて、外に追い出されてしまったわけです。しかし、彼が、何の当てもなく、路頭に迷う羽目になってしまったその時に、主イエスが現れました。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。(5節)」、この通りです。
この節は、もともとのギリシア語の本文と随分ニュアンスが違います。この「出会うと」、と訳されています字は、本来は「見つける」、と訳される言葉で、これは、探していたものが見出される時に使われる聖書的に非常に重要な言葉です。例えば、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカ15:4 )」、ここで、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」、と記されています、「見つけ出す」、という字が、本日の御言葉で、「出会うと」、と訳されている同じ言葉です。ですから、「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと」、ここは、まるで主イエスは、失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回るかのように、この人を探して、見つけたのです。ご自身が目を開かれた人が、ユダヤ社会から追放されたと聞いたので、即座に主イエスは、その人を探し回り、そして今見つけ出した、これがもともとのギリシア語の聖書で描かれているこの場面であり、ここには「出会うと」という表現から想像される偶然性のようなものは全くなく、むしろ、積極的に、ご自身の羊を見つけ出す救い主のお姿が示されているわけです。
さて、「あなたは人の子を信じるか」と言われた」その「人の子」が主イエスであることを理解したこの人は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。この節では、大切な字が四つ使われています。
まず、「主よ」、の、この主という字は、ギリシア語の「キュリオス(κύριος)」という言葉で、これは主なる神を意味する言葉です。
二つ目は、「信じます」、という字、これは信仰を意味する大切な言葉です。
そして三つ目は、「と言って」、の「言う」、という字、これは、よく見られ、今までも頻繁に使われてきた「言う」と訳されている字とは区別されていまして、この福音書では2回しか見られない言葉です。これは、信仰告白を表明する意味に含みを持たせて、ここで使われているようで、ここでは「言い表して」、あるいは「表明して」、くらいに訳した方が、ニュアンスとしては、正しいでしょう。
さらに四つ目が、「ひざまずく」、と言う字です。これは、礼拝する、とも訳せる言葉で、相手が礼拝の対象である時に使われます。ですから、「彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた」、つまりこれは、「イエスを主である、と表明して礼拝した」、と言う状態でありまして、ここには、キリスト教信仰そのものがあると言っても良いくらいに非常に大切な御言葉です。そして、これこそが、目が開かれた者が、最終的に辿り着いた姿であります。目が見える、と言うのは、イエスを主として礼拝することに他ならない、これが生まれつき目の見えない人の目が開かれた出来事の結論なのです。
この目の開かれた人の姿から、主イエスは、「イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。(39節)」、と宣言されました。生まれつき目の見えなかった人が、その目を開いて、イエスを主である、と表明して礼拝したのです。ところが、目が見えていたはずのファリサ派の人たちには、それが全くわからなかった、これはこの両者のコントラストにもなっています。
当然、この主イエスの言葉に怒り心頭であったのがファリサイ派の人々でありました。「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。(40節)」、とここで、ファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」、と抗議しています。
しかし、実際、彼らの肉眼は見えているはずです。ですから、ここでは、目が見えるとか見えないとか言うのは、肉体的な目が開かれているのか、いないのか、と言う次元ではなくなっています。ファリサイ派の人々は、その目をひんむいて、「我々も見えないということか」と詰め寄っているからです。つまり、彼らは、肉眼はもちろん、霊的な視界も開けていたと思い上がっていたのです。そして、これこそが結局彼らを罪に定めることになりました。
「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。(41節)」
生まれつき盲人であった人は、肉眼はもちろん、信仰の目も閉じられていました。しかし、主イエスによって、まず肉の目が開かれ、そして信仰の目も開かれたのです。ファリサイ派の人々は、その正反対でありました。彼らは、肉眼はもちろん、霊的な信仰的な目も開かれていて、よく見えていると高ぶっていました。だから、彼らの罪は残る、わけです。そこには悔い改めがないからです。
この部分で示されている大切な真理は、目を開いて下さるのは、主イエス以外にはいない、と言うことなのです。イエスと無関係に目が開かれる、と言うことはあり得ないのです。ファリサイ派の人々は、イエスと一緒に居合わせたのです。唯一罪人の目を開いて、救いへと導いて下さる方と一緒にいたのです。しかし、彼らは、そのイエスに目を開いていただくのではなく、「我々も見えないということか」、とあろうことか、イエスを敵に回して、自分たちが見えていることを主張しました。つまり、目が見える者と言うのは、主イエスによって目が開かれた者であり、目が見えない者、と言うのは、主イエスを拒み、主イエスに目を開かれない者である、と定義することができるのです。
しかし、主イエスは、積極的に私たち罪人を探し、その目を開いて下さる方です。ここに、「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は」、とありますが、改めてこれも冷静に考えれば違和感を感じます。主イエスが、ファリサイ派の人々につきまとわれるのを拒まなかった、と言う事実があって初めて成り立つ状況だからです。つまり、主イエスはご自身に敵対する人々とも共にいてくださったのです。そのような状況で、ご自身が目を開かれた人が、ユダヤ社会から追放されたと聞いたので、即座に主イエスは、その人を探し回り見つけ出してくださった。これが主イエスキリストであります。
主イエスは、ご自身に敵対する人の目を開くことが出来る距離にいてくださり、その上で尚、ご自身の羊を見つけるまで探して下さる。私たちのこの目が開かれているのも、主イエスが、私たちを探して見つけ出して、そしてこの目を開いてくださったからです。
生まれつき盲人であったこの人は、その目が開かれた時、ただ主イエスだけに視点を向けて歩み出しました。私たちも、悔い改めて、目の開かれた時を思い出し、そこにおられた主イエスのみに視点を向けて、再度歩み始めたいと願います。(我もなく、世もなく、ただ主のみいませり。讃美歌529番)