2024年06月02日「見えなかった私が、今は見える」

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見えなかった私が、今は見える

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 9章24節~34節

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24節 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25節 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26節 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27節 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28節 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29節 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30節 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31節 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32節 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33節 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34節 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
ヨハネによる福音書 9章24節~34節

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説教の要約

「見えなかった私が、今は見える」ヨハネ9:24〜34

先週の箇所から、目の開かれた人に対するファリサイ派の人々の尋問が始まり、それが今週の御言葉でも続いています。ここで、ユダヤ人たちは、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ(24節)」、と目の開かれた人に詰め寄りますが、この人は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。(25節)」、と回答しました。この人は、目が開かれて、今まで見えなかったものを見ることができるようになりました。しかし、彼は、目が開かれても見えないものがあることを知っていたのです。 この目の開かれた人は、「罪ある人間だ」、とイエスのその正体を見抜いたとするユダヤ人のように傲慢な目が開かれたのではなかったということです。

 その上で、この人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」、と続けます。ここから目が開かれたこの人は、目が開かれて見えるようになったその責任を負うかのように、正々堂々とユダヤ人たちと渡り合って一歩も引かないのです(27〜33節)。

 冷静に考えてみますと、物乞いであった人が、今ユダヤ社会の指導者たちを相手に一人で立ち向かっている、というのは大変なことだと思うのです。これは盲目の人の目が開かれた出来事には及ばないとしても、偉大な奇跡ではないでしょうか。主イエスに目が開かれた以上、それで、めでたし、めでたし、で終わりではないということです。目が開かれた奇跡は、その人の歩みの中で何度も繰り返される、これがここで示されている大切な真実ではないでしょうか。

この人は、「あの者がどこから来たのかは知らない(29節)」、と言い放ったユダヤ人たちに、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。(30〜33節)」、と応答します。大変、説得力のある抗弁ではないでしょうか。ここでは、「神は罪人の言うことはお聞きにならないが、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになってくださる」、と言う因果応報の原則がこの論理を支えています。

この9章に入った時に、弟子たちがこの目が見えなかった人の存在をこの論理で説明しようとしました。「弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。(2節)」、以前確認しましたように、これが当時のユダヤ社会を支配していた宗教における運命論であって、この目が開かれた人は、盲目であった長い間この論理に束縛されてきたわけです。しかし、主イエスによってその運命論から解放されて自由にされたこの人は、この因果応報の論理を逆手にとって、ユダヤの指導者たちに痛烈な一撃を加えるのです。これは、律法の権威に胡座をかいて、イエスが何者であるか我々の知ったことではない、と言い放った彼らに対して、余計にダメージを与えたはずです。この思想は、旧約聖書の根幹を支える当時のユダヤ教の立場でもあったからです。しかし、この運命論を打ち砕いたのが、主イエスの十字架であったのです。最も聖く、尊い神の御子が、最も呪われるべき十字架で死なれた、神の御子が罰を受け、罪人が赦された、この驚くべき逆転がユダヤ宗教の運命論を破壊し、無効にしたのです。ですから、キリスト以前は、この因果応報の原則はユダヤ宗教において極めて有効であったわけです。それどころか、今に至るまで、この論理を打ち砕くのは十字架以外にはないのです。目が開かれた人は、当時のユダヤ教のこの立場から、ユダヤの宗教的指導者たちの矛盾を追求しているわけなのです。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません(32節)」、この具体的証拠があるのに、どうしてあなたがたが、その方を知らないのか、これは大変筋道が通った迫力のある追求であります。キリストによって目が開かれ自由にされた張本人であるがあるがゆえに、余計に説得力を伴ったのではないでしょうか。これには、ユダヤ人たちの陣営も、ぐうの音も出ない状況に追い込まれたようです。「彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。(34節)」、と結局ユダヤ人たちは、「うるさい、黙れ」的に反論して議論を打ち切ることしかできませんでした。「お前は全く罪の中に生まれたのに」、これが、ユダヤ人たちの切り札で、「目が見えていなかったのは、お前が罪の中に生まれた証拠ではないか」、と言う同じ論理です。しかし、この人にとっては、なんのダメージにもならなかったでしょう。この目が開かれた人こそは、罪の中に生まれたのではないことが証明された人物だからです。「お前は全く罪の中に生まれた」と口汚く罵られたこの人の目は、「お前は神の栄光が現れるために生まれた」、と宣言されて開かれたのです。今、この人の立場は、見事に逆転したのです。そして、神の栄光が現れるのは、この人の目が開かれる、と言う前代未聞の奇跡で終わるのではなく、目が開かれたこの人の信仰の戦いも含まれるのです。それが、本日の御言葉では描かれているのです。しかし、最終的に、ユダヤ人たちは、「彼を外に追い出した」、と記録されています。つまり、この人は、ユダヤ社会から追放されてしまった、と言うことです。目が見えるようになって、物乞いから解放され、ユダヤ社会で自立して生きることが可能になった途端に、また物乞いをしなければ生きていけないような境遇へと転落してしまったわけです。

 この人は、「目の見えなかったわたしが、今は見える」、と証言して、この信仰の戦いを始めました。そして、この人は、目が見えなかったからこそ、見えるとはどう言うことなのかが、よくわかったのではないでしょうか。これは、私たち全てのキリスト者に悔い改めを要求する事実ではないでしょうか。

 私たちも見えなかった目が開かれた喜びを知っているはずです。それでも尚、私たちの信仰生活に喜びが足りないとすれば、それは目が見えていないからです。あろうことか、神の御子の十字架によって、罪人のかしらであるこの私が許され、そればかりか、永遠の命と御国の世継ぎまで与えられた。私たちの目が開かれていれば、この計り知れない神の恩恵に感動しないはずはありません。

 私たちも信仰が与えられるまでは、これら全てのものが全く見えなかったのです。ですから、「目の見えなかったわたしが、今は見える」、これは私たち自身の信仰告白でもあるのです。

そうである以上、キリストの十字架の恵に、私たちは信仰の目を大きく開こうではありませんか。大切なのは、私たちも、私たちの目を開いて下さった主イエスとの積極的な関係で、今、目が見えるようにされているという信仰の自覚です。盲人であった人が、「目の見えなかったわたしが、今は見える」、と積極的に信仰の戦いを始めたように、ここに集められた私たちが、それぞれの賜物を用いて、積極的に主イエスに仕え、教会に仕える、その責任が与えられている、本日の御言葉はこのことを私たちに勧告しています。目が見える者は、必然的に主イエスのお役に立つために歩むのです。