2024年05月26日「目が開かれた人の役割」
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目が開かれた人の役割
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 9章13節~23節
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聖書の言葉
13節 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14節 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15節 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
16節 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
17節 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
18節 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19節 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
20節 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21節 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22節 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
23節 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
ヨハネによる福音書 9章13節~23節
メッセージ
説教の要約
「目が開かれた人の役割」ヨハネによる福音書9章13〜23節
本日から、また、ヨハネ福音書講解説教へと戻ってまいります。
前回は、12節の段落まで終わり、そこでは、生まれつき目の見えなかった人の目が開かれた、という前代未聞の奇跡が、主イエスによって行われました。生まれつき目の見えなかったこの人は、生まれて初めて神が創造された素晴らしい世界を目にしたのです。それがどんなに感動的な出来事であったか、私たちの誰一人知るよしもありません。彼は、跳び上がる思いで家に帰り、真っ先に彼の両親にこの奇跡を報告したに違いありません。しかし、前回確認しましたように、この生まれつき目の見えなかったこの人の周りで、その喜びを共有してくれる友は一人もいなかったのです。それどころか、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」、と逆に、目が開かれたことが、咎められているかのような尋問が始まり、それが本日の御言葉でも延々と続くのです。
その流れで、ファリサイ派の人々のところに連れて行かれた目の開かれた人は、どうして見えるようになったのかと尋ねられた時、「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。(15節)」、とありのままを打ち明けました。そして、すぐにそれに対するファリサイ派の人々の見解が示されます。「ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。(16節)」、ここで重要なのは、「彼らの間で意見が分かれた」、という事実です。ここでは、ユダヤ教の指導者的立場にあったファリサイ派の人々の中でさえ、イエスよって分裂が起こっていた、と証言されているからです。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行ったのです。それは、イエスの安息日の働きをジャッジしてもらうために他なりません。しかし、その頼みのファリサイ派の人々は分裂してしまい、それをジャッジすることができなかった。その何とも不合理な状況がここで描かれているのです。それであろうことか、ファリサイ派の人々は、連れてこられた盲人であった人にそのジャッジを依頼するのです。大変滑稽な姿ではありませんか。結局、ファリサイ派の人々は、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか(17節)」、と目が開かれた本人のジャッジを必要としたのです。
しかし、ここで、「彼は「あの方は預言者です」と言った」、とこの目が開かれた人に変化が現れます。この人は、目が開かれた当初は、イエスについて、このような回答を持っていませんでした。イエスについて、「知りません(12節)」というのが彼の立場でした。そのイエスが何者であるかを問われた時、「知りません」と回答した男が、今、「あの方は預言者です」と言ったのです。そしてこれがファリサイ派の人々から委ねられた目の開かれた人のイエスについてのジャッジでした。
しかし、頑ななユダヤ人たちは、この目の開かれた人の証言を信じないで彼の両親を呼び出し、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。(19節)」、と尋問しました。ところが、この彼の両親は、ユダヤ人たちを恐れ、「もう大人ですから、本人にお聞きください(23節)」、と逃げてしまいました。
本日の御言葉から、少しずつ、本当に目が見えるというのはどういうことなのか、あるいは見えないとはどういうことなのか、それが明らかになっています。それについて二つのことが確認できます。
一つは、生まれつきの盲人の目が開かれた時、今まで目が見えていた人たちの目が、実は見えていないことが明らかになった、あるいは故意にその目を閉じた者も現れた、ということです。
ファリサイ派の人たちは、目が見えない人の目が開かれた、という事実を証拠も含めて確認しながら、それを見ることはできませんでした。これによって、彼らの肉体の目は開かれていたのに、その信仰の目は塞がれていた、このユダヤ人たちの姿が描かれているのです。本当に目が見えるというのは、信仰の目が開かれているのかいないのか、これにかかっている、ということなのです。
そして、目が開かれた人の両親は、故意に自分たちの目を閉じてしまいました。これも信仰との関係です。彼らは生まれつき盲目であった我が子の目が開かれた、という神の創造の御業を、身を持って体験しました。しかし、彼らは、目を開いたそのナザレのイエスを信じないで、この世的な不利益を被ることを恐れた。それは、この両親が、肉体の目だけを大きく開いて、目先のことに怯え、信仰の目を閉じてしまったからです。
もう一つは、目が開かれた人には役割が与えられた、ということです。
これは、次週以降の御言葉でさらに明らかにされますが、この目が開かれた人は、彼の目を開かれた主イエスについて、自らの立場を明確にしなければならないのです。この人も、彼の両親と同じように、「どうして今は目が見えるのか」というユダヤ人たちの問いに対して、最初から逃げた方が社会的な立場は有利でした。肉体の目が開かれても、信仰の目は閉じたままの方が楽だったし、それで一件落着でした。しかし、この人は、イエスが自分にしてくれたことを正確に証言するだけでなく、「あの方は預言者です」と公言したのです。つまりこの目が開かれた人は、会堂から追放されるリスクを負いながらも、彼の信仰を曲げなかった、ということです。
この人は、今物乞いから、自由にユダヤ社会に生きる可能性を与えられました。しかし、彼はもう一度物乞いへと転落する道を選んだ、ということなのです。これが、目が開かれた人の役割でありました。肉体の目を開いて逃げるのではなくて、信仰の目を開いて立ち向かう、これがこの男の姿で示されている信仰者の姿です。
この人は、今一人です。ユダヤ社会はもちろん、今まで最も彼が頼ってきた両親でさえ、ユダヤ社会から追放されるこの人に手を差し伸べることはできません。しかし、そこでこそ、信仰の目は、はっきりと開かれ、見えるのではないでしょうか。
或いは、生まれて初めて神が創造された素晴らしい世界を目にしたこの人であるからこそ、その目に、人間の罪もまたよく見えたのではないでしょうか。この目が開かれた人にとって、頼りになるのは、もはや主イエスの他いないのです。この世のものを全て失っても、そこに尚、拠るべき方がおられる、これが信仰であります。
私たちも、最終的には一人でこの世を去っていかなければなりません。たとえ、信仰者として天に召されていった両親を持っていても、いつまでも、お父ちゃん、お母ちゃん、と頼り続けることはできないのです。拠るべき方は、十字架の主イエスしかおられない、ここに信仰の本質がございます。
そして、その場合、その信仰に打ち勝つ力はありません。信仰の目が開かれた私たちの役割は、私たちが主イエスに頼ることです。徹底的に主イエスを信じ、生涯この信仰に生きることであります。