2024年05月04日「わたしがそうなのです」

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わたしがそうなのです

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 9章6節~12節

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6節 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7節 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8節 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9節 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10節 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11節 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12節 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
ヨハネによる福音書 9章6節~12節

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説教の要約

「わたしがそうなのです」ヨハネ9:6〜12

先週から、ヨハネ福音書の講解説教は、9章に入りました。そして、本日の御言葉からは、この記事の本論と言える部分に入り、いよいよ、生まれつき目の見えなかった人の目が開かれます。

 「そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(7節)」、この人は、人生の途中で失明したのではなくて、生まれてからまだ一度も目が見えたことがないのです。ここに、主イエスの御業の唯一性があります。つまり、これは再生ではなくて、創造なのです。ですから、これは創世記の最初に謳われています天地創造の神の御業と同じ性質です。何もないところから、「光あれ」と言われたら、「光があった」、同じように、今この盲人の闇に光が創造されたのです。

 さて、この目が開かれた人の周りは、当然ざわつきます。「近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(8、9節)」、生まれつき目の見えない人が、ある日突然見えるようになって登場した、当然これは、にわかには信じられない出来事です。多くの人は、自分の理解の範囲内で説明できないことを信じようとしません。それが、ここで議論がなされている理由です。しかし、この不毛な議論は、すぐにケリが付けられています。それが、この盲人の「わたしがそうなのです」、この一言です。

しかし、それでも、尚、それを受け入れないのが、罪人の習性でありまして、彼らは、自分たちが納得できるような説明を求めます。「そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。(10、11節)」、この目が開かれた人は、自分に起こった出来事をそのまま説明します。実は、彼は、この後、この主イエスが彼にしてくださったことを、繰り返し証言しなければならない立場に追い込まれます。

この目が開かれた人は、天にも昇る心地であったはずです。彼は今、生まれて初めて、神様が創造されたすべてのものを目にしているのです。その感動は、如何許りであったでしょうか。しかし、彼の周りで、その喜びを共有してくれる友は一人もいなかった。「では、お前の目はどのようにして開いたのか」、と逆に目が開かれたことが、咎められているかのような尋問がここから始まるのです。

そして、この尋問は、次の長い段落を通してさらにその厳しさを増します。閉鎖的なこの世の現実が、ここから映し出されているようであります。目が見えなかった人の目に、初めて映し出された神の創造の恵みを、その光を、周りの人々が、もう一度暗闇に戻すかのように機能しているのです。

 さて、ここで、この目が開かれた人が、それを実現してくれた人の名を「イエスという方」、と言ったものですから、周りの人たちは、その所在を探ります。「人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。(12節)」、これも幾度か確認してきましたように、このヨハネ福音書で、イエスがどこにいるのか、という問いは、そのままイエスは誰か、という問いと同じ意味を持ちます。

ですから、ここで図らずも人々が、この目が開かれた人に尋ねた「その人はどこにいるのか」、という質問は、そのままこの人にとって、イエスは何者であるのか、という非常に重要な問いかけになっているのです。しかし、目が開かれたこの人の回答は、一言「知りません」、でありました。彼にとって、主イエスは知らない人であったのです。つまり、かつて盲人であったこの人の信仰が多少なりとも、その目が開かれた要因になった、という話ではないのです。彼は信仰どころか、イエスが誰かさえ全くわからなかった。ただ、主イエスの憐れみによって、彼の目は開かれたのです。そして、この人は、目が開かれた後で、その信仰が問われ、試され、最終的には与えられていくのです。

この事実が2つの点で重要です。一つは、私たち罪人の救いというのは、ただ主イエスの憐れみにかかっているということです。そもそも目が見えないので、目の前に救い主がおられることさえわからなかったこの盲人に、救われるための資格もなければ、救われるための要因もありません。ただ主イエスの憐れみによって、神の業がこの人に現れた、これが彼の救いの全てです。

 もう一つは、救われてからが大切であるということです。この人は救われた後に、自らが救われた経緯について証言することで、信仰が与えられていくのです。この盲人の目が開かれる記事全体で、実際この人の目が開かれた事実は、たった一つの節で記録されているだけです。「そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(7節)」、これだけなのです。聖書は、生まれつき目の見えない人の目が開かれる、という前代未聞の奇跡よりもはるかに、この人のその後の行動に視点を向けさせます。私たちもそれぞれ救われた日の経験を持っていて、それは一人一人違うはずです。主なる神は、一人の罪人をもっともふさわしい仕方で救いに導かれるからです。しかし、全ての信仰者に共通して言えることは、大切なのはその後であるということです。「目が見えるようになって、帰って来た」、その後の私たちの働きに主なる神は、期待しておられるからです。

 では、この目が開かれた人は、まず何をしたでしょうか。それが、「わたしがそうなのです」、この証言なのです。彼は、逃げも隠れもせず、自分が、イエスにいやされた事実は曲げなかったのです。実は、この「わたしがそうなのです」、の部分は、ギリシア語で、あの「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」です。これはもちろん、主イエスが「わたしはある」、と言われた神の顕現を示すあの定型句の「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」とは全くその意味が違います。それでも彼は、「私だ・I am」、と言ったのです。

 目が見えた時、この人の口から真っ先に溢れたこと、それが「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」であった。それまでの彼は、自らのその存在さえも見えない、ただ生かされているだけの盲人でした。しかし、主イエスによって、目が開かれて、初めて、私がある、私が存在している、そのことを人々の只中で証言することができたのです。生かされていた人が、今生きる人に変えられた、ということではないでしょうか。だから、「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」なのです。そして、そこから彼の戦いは始まるのです。今まで社会の底辺に埋もれて、その存在さえ無視されていたような男が、今やターゲットになったからです。「わたしはある=エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」、と宣言された主イエスに救われた罪人は、同じように、「わたしはある=エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」、と自らの存在を証言するのです。

 私たちもまた、この世におきまして埋もれてしまいそうな小さな存在です。しかし、私たちの主は万軍の主であるイエスキリストです。だから、自信をもって、胸をはって、主イエスに救われた自らの存在を証言するのです。なんの値打ちもないこの私が、主イエスに救われて永遠の命に生かされているこの恵みは、この世の中に、伝えても、伝えても、まだ足りない程、偉大なのではありせんか。

わたしたちは、「わたしがそうなのです」、とこの救いの恵みの証を続けようではありませんか。