2024年04月28日「神の業が現れるため」

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1節 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2節 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3節 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4節 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5節 わたしは、世にいる間、世の光である。」
ヨハネによる福音書 9章1節~5節

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説教の要約「神の業が現れるため」ヨハネ9:1〜12

本日からヨハネ福音書講解説教は、9章に入ります。この章全体を通して、生まれつき目の見えなかった人の目が開かれる、という主イエスのお働きと、それを通して引き起こされた出来事が記録されています。本日与えられた1〜5節までは、この出来事のプロローグ的な役割を担っていまして、まずここに、この記事全体の神学的な序論が記されている、と申し上げてよろしいでしょう。

ここでは、通りすがりに座っていた「生まれつき目の見えない人(1節)」について、弟子たちの主イエスに対する質問が非常に重要です。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)」、これは、病や身体的な障害といった肉体的な不幸が、罪の帰結であるとする因果応報の立場でありまして、当時のユダヤ教におきましては、支配的な思想でありました。弟子たちは、その因果応報の教理で、この盲人の存在を説明しようとしたわけです。それに対して、主イエスはお答えになります。「「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(3節)」、これは、驚くべき主イエスの宣言であったのではないでしょうか。消極的にしか捉えられずに、常に因果応報の教理で説明されてきた肉体的なハンデキャップが、ここでは極めて積極的なものとして理解されているからです。社会の最下層にいて、物乞いを続けるのが精一杯であったこの人の「生まれつき目が見えない」、というハンデキャップが、そして彼の存在そのものが、今や決定的な問題ではなくなったのです。「神の業がこの人に現れるためである」、と主イエスが宣言されました時、それさえも極めてポジティブなものとして認識されているからです。

その上で、注目すべきは、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない(4節)」、と主イエスが続けて言われているところです。神の業というのは、決して主イエスの個人プレーではないということです。これは次週の箇所になりますが、実際この後主イエスは、この盲人の目を開き、神の業を実現します。しかし、むしろ、主イエスが、この盲人の目を開かれたこのお働きは、これから行われる神の業の起点にすぎないのであります。ここから神の業が行われる新しい時代に突入する、だからわたしたちが行う業であると言われているのです。しかし、同時にそれは、「まだ日のあるうちに行わねばならない」、という緊急性も持っているわけです。

 では、神の業とは具体的にどういう働きなのか、実は、それは少し前の6章の中で主イエスご自身が定義されています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。(6:29)」、つまり、神の業というのは、「イエスキリストを信じること」、と定義できます。実に、「主イエスを信じる」日常生活の中で、神の業は実現するのです。そして、その頂点にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝こそは、主イエスを信じるこれ以上ない証です。ここに神の業は、最も鮮やかに実現しているわけなのです。ですから、主の日の礼拝は、チームプレイであるはずです。司式者、説教者、奏楽者、献金当番、受付、清掃担当、とそれぞれが与えられた賜物を用いて神の業に仕えているわけです。ですから、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」、これは、世の終わりの時まで続けられる主の日の礼拝を中心としたとした福音宣教について言われているわけです。福音宣教というのは、決して呑気な働きではないのです。いつ主イエスが来られてもいいように備えをすることです。もし、主イエスが来られたときに、頑なに主イエスを信じていないのであれば、もはやそれまでなのです。「だれも働くことのできない夜(4節)」、というのはそういう意味を持ちます。

 本日は、弟子たちが持ち出した因果応報の教理を覆したイエスキリストの福音を簡単に確認して終わります。先ほど、この因果応報の教理は、当時のユダヤ教におきましては、支配的な思想でありました、と過去形で記しました。しかし、これは決して過去の話でも、ユダヤ教に限定された話でもございません。科学技術が進歩し、思想哲学が成熟した現代でも、特に私たちのこの国では、因果応報の教理に支配されている多くの方がいらっしゃるのではないでしょうか。災厄を恐れてのお祓いのようなものはその最たる例です。私たちの国に根付いているこのような「因果応報」は、仏教の思想から持ち込まれたものでありまして、簡単に申し上げれば、よい原因はよい結果を導き、悪い原因は悪い結果を導く、これが軸となった思想体系です。急な病や事故のような思いもよらぬ不幸やアクシデントに遭遇した時に、多くの方がこの思想に引き込まれるわけです。私たち人間は、自分の意志では、どうすることもできない現実にぶつかります。それをわかりやすく説明する教理が因果応報で、この思想に翻弄され、支配されて大切な人生を終えていく方がいかに多いことでしょうか。

ですから、実に、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」、これは、特に私たちの国で幅を利かせ、現代でも解決されていない大問題なのです。しかし、キリストは、すでに2千年前に、この思想にピリオドを打っているのです。

 それが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」、これです。私たちに与えられたハンディキャップ、あるいは、突然襲ってくる思いもよらぬ不幸、そのようなものは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」、つまり、因果応報の帰結ではない。そうではなくて、「神の業がこの人に現れるためである」、これがキリストの回答であり、私たちの立場です。この世のどのような悲惨な出来事さえ、必ず、最終的には、神の御栄光のためであったということが明らかにされるのです。

その保証がキリストの十字架です。神の御子が十字架にかかって殺されてしまった。歴史の中で、これ以上あってはならない出来事はございません。しかし、それが私たち罪人の救いのためであって、人間の罪の極みである十字架を通して、最も偉大な神の業が実現したのです。これは因果応報とは、正反対に位置する驚くべき逆転です。これ以上ない悪事が、これ以上ない救いに逆転したのです。実に福音というのは因果応報と正反対に位置する恵なのです。そうである以上、何一つ、私たちにとって、無益になることはないはずです。パウロは、この私たちキリスト者の立場をはっきりと謳っています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ書8:28)」、ここに集う私たち一人一人、何かしらハンディのようなものがありませんでしょうか。或いは、これから老いていく上で、体の多くの部分がその機能を失っていきます。足腰が弱り歩けなくなっていく。視力と聴力が衰えていく。あるいは大きな病との戦いや、認知症という老後の生き方が与えられる方もおられるかもしれない。しかし、その全てが、「神の業が現れるためである」、これが私たちの生き様ではないでしょうか。むしろ、そのような私たちの弱さを通して、「神の業が現れる」、それが聖書の約束です。誇ろうではありませんか、私の弱さを。この弱い私を通して、神の業が実現するのですから(Ⅱコリ13:8〜10)。