2024年02月18日「わたしは世の光である」

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わたしは世の光である

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

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12節 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
13節 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
14節 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
15節 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
16節 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
17節 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
18節 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
19節 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
20節 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

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説教の要約

「わたしは世の光である」ヨハネによる福音書8:12~20

 本日の12節からの段落は、もともとは7章の終わりの部分と接続していまして、「イエスは再び言われた(12節)」、とありますこの記事の背景は「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日(7:37)」と記されている仮庵の祭りの最終日です。

そこで主イエスは、「わたしは世の光である(12節)」、と宣言いたしました。ここで注目しなければならないのは、この「わたしは世の光である」、これは、もともとのギリシア語の本文では、今まで何度も確認してきました「わたしはある」と訳されるギリシア語のἘγώ εἰμι (エゴー・エイミー)が使われている、ということです。この後もその都度確認いたしますが、「私は復活であり、命である(11:25)」、あるいは、「私は道であり、真理であり、命である(14:6)」、このような極めて大切な真理は、必ず「わたしはある」と訳されるἘγώ εἰμιに補語がプラスされて表現されます。この「私は〜である」と訳される「Ἐγώ εἰμι+〜」が、ヨハネ福音書の中心的テーマである「主イエスは誰か」に回答を与えているのでありまして、これが非常に重要です。Ἐγώ εἰμιによってキリストが繰り返し鮮やかに示される、ここにヨハネ福音書の凄みがございます。

実は、この後このヨハネ福音書の8章では、そのものずばりの「Ἐγώ εἰμι」すなわち「わたしはある」が使われてキリストが宣言されます(24節、28節、58節参照*次週以降その都度学びます)。このヨハネ福音書の8章は、『わたしはある』「Ἐγώ εἰμι」のオンパレードとなっていまして、イエスが一体誰であるか、ここに焦点が当てられながら記事が展開していく上で、非常に威厳に満ちた御言葉で、信仰者は、このことを覚えながら読み進めていくことが大切なのです。

さて、主イエスのこの「わたしは世の光である」に対して早速難癖が付けられます。「それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。(13節)」、実は、『わたしはある』「Ἐγώ εἰμι」と宣言された以上、それを証明する必要もなければ、論理的に証明する方法もないのです。これは宣言であって証言ではないからです。しかし、ファリサイ派の人々は、それを証明できるのかできないのか、という見当違いの難癖をつけてきたわけです。主イエスの宣言は信仰を持って受け入れるものであり、地上的な論理で証明するものではありません。ですから、14節以下は、その愚かな問いかけに主イエスは地上的な論理ではなく、信仰によってしか解けない真理によって説明します。 『わたしはある』「Ἐγώ εἰμι」は論理ではなくて真理だからです。それは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。(14節)」、この主イエスの言葉から明らかです。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」、これは、すなわちご自身が神と等しいものであり、永遠の存在であることの宣言です。ここでは永遠の広がりを持った主イエスの存在が示されているからです。本来真理というのは、そのような立場からしか語れないはずなのです。それに対して、「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」、これが私たち罪人の姿であり、この立場から真理の何たるかを突き止めることは不可能なのです。ここでは真理について両極端である主イエスと罪人が対比されているわけです。

ファリサイ派の人々はこの世の論理で主イエスに難癖をつけるのですが、主イエスは信仰の論理でそれに回答されるので、両者は噛み合わないのです。そしてファリサイ派の人々は、結局最後まで信仰の目ではなく、地上的な視点で、主イエスに詰め寄るのです。「彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。(19節)」、彼らが苦し紛れに出した「あなたの父はどこにいるのか」この地上的な問いかけに主イエスは、天におられる、とは回答いたしません。彼らにはわからないからです。主イエスは、その信仰の目がふさがれていたファリサイ派の人々にふさわしい回答をされます。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない」これです。この世の論理、地上的な視点で主イエスに言いがかりをつける以上、彼らはわからないのです。主イエスのことも、天の父のこともわからないのです。そして、この彼らの姿と正反対である信仰者の姿が、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(12節)、これです。これがファリサイ派の人たちとは正反対にある信仰者の姿です(3:19〜21、12:35、36を参照ください)。

 改めて注目したいのは、主イエスが、「わたしは世の光である」とはっきり言われているところです。私たちの生かされているこの世の中を照らす光、それが主イエスである、ということだからです。

そして、これもこのヨハネ福音書のプロローグによってあらかじめ見事に表現されていました。

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(1:4、5)」、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」この通りです。これはそのまま「わたしは世の光である」、この主イエスの自己啓示を裏付けています。ここで言われています「暗闇」とは、すなわち「この世」です。この世という暗闇に輝く光、それが主イエスである、私たちは改めてこの大切な真理を覚えておきたいのです。「わたしは世の光である」というのはそういうことです。この世が暗闇だから、光は輝くのです。

 ウクライナの争いは、今週で2年を経過し、それ以上に今パレスチナでは、もはや争いを通りこしてジェノサイドと言えるような虐殺が繰り返されています。この前の2・11平和集会は東京恩寵教会で行われ、パレスチナで最近まで勤しんでおられた医療奉仕団の方が講義をしてくだいました。

状況は最悪です。ガザを「地中海に浮かぶ天井のない監獄」とこのように言われていました。かつてホロコーストの犠牲となった国民が、今度は正反対の立場で、弱い民族を浄化することを始めていて、私たちが映像で見ているものは、現実とは程遠い現地の様子なのです。まさにこの世は暗闇です。小さな子どもたちまで、その犠牲になっていて、今ほど、この国に生かされている私たちの無力さに苦しむときはございません。あるいは近い将来、さらに広い場所でこのようなことが起こっているのかも知れません。しかし、それでもなお「光は暗闇の中で輝いている」これが私たちの信仰です。

 この世の最も暗いところに、キリストがおられて、必ずその全てをご覧になってくださっている。

Ἐγώ εἰμι 「わたしはある」、この主イエスは、必ずおられるのです。私たちが滅んでも、主イエスはおられる。そうである以上、暗闇が暗闇で終わることは決してございません。「わたしは世の光である」、これは暗闇の支配に怯え嘆き悲しむ、あるいは虐殺されるこの世の弱い者たちの唯一の慰めであり、争いが一日も早く終わるように毎日祈り続ける私たちの道標でもあります。

 今、私たちに一番必要なものは忍耐ではないでしょうか。忍耐とは御言葉に立ち、沈黙して祈ることであります。祈り続けることであります。「わたしは世の光である」、この主イエスの言葉に信頼し、御言葉に立って祈り続ける、その時どのような暗闇であろうが、そこになお希望が輝くはずです。