2024年02月11日「わたしもあなたを罪に定めない」
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わたしもあなたを罪に定めない
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節
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聖書の言葉
1節 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2節 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3節 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4節 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5節 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6節 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7節 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8節 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9節 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10節 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11節 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節
メッセージ
説教の要約
「わたしもあなたを罪に定めない」ヨハネによる福音書7:53~8:11
本日与えられたこの御言葉によって慰めを与えられ、キリスト者へと導かれた方は少なくありません。罪の赦しに関して、聖書全体の中でも特に輝きを放っている、そういう御言葉だからでありましょう。
ここでは、「姦通の現場で捕らえられた女」が、主イエスの前に連行され(4節)、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか(5節)」、と律法学者たちやファリサイ派の人々がまくし立てる場面が描かれます。そして、彼らの目的が、「イエスを試して、訴える口実を得るために(6節)」、と記されています。
しかし、それに対する主イエスの姿が、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」、と描かれています。この騒々しい神殿の前の場所では、全ての者が立ち上がっていました。捕らえられた女性も、「真ん中に立たせ」、と記録されていましたので、その女性を取り囲むように律法学者たちやファリサイ派の人々が立っていて、その真ん中に立たされた女性のすぐ近くに主イエスはかがみ込んでおられたのでしょう。ここで主イエスは、解答をされませんでした。しかし、彼らを無視してその場を離れるのでもなく、むしろ彼らの真ん中で避難されている今や死刑囚とされている女性の隣で、彼女より低くなってそこにかがみ込んでいたわけです。今主イエスは、この場所で最も低いポジションを取られた、それがこのかがみ込んだ主の姿です。
しかし、それでもなお、同じことを執拗に問い続ける律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」、と回答しました。これは非常に鋭い指摘でした。罪を犯した女性にばかり注がれていた彼らの視点を彼ら自身に向けさせたからです。彼らは、姦淫の女性を石打の刑にする根拠としてモーセの律法に訴えました。そのモーセの律法が、今度は彼らの方に顔を向けて立ち向かい迫ってきたのです。
その結果、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい(9節)」、とありますように、結局誰一人、この女性に石を投げる者はおらずに、立ち去ってしまったわけです。
この彼らの姿は、なんとも惨めではありますが、自らの罪を認めたという点では多少なりとも評価されてもいいのでしょうか。それは違います。彼らは、立ち去ってしまい一人も残らなかった。つまり、これは悔い改めとは正反対の姿なのです。悔い改めとは、主イエスの許から立ち去ることではなくて、主イエスの許に立ち帰ることなのです。彼らの誰一人として、主イエスの許に立ち帰らなかった、これも聖書を通読する上で大切な視点です。
さて、場面は静まり返り、この場所が主イエスとこの姦通罪で連行された女性だけになった時、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」、と言われました。どうして、このように言えるのでしょうか。それはその罪を全て主イエスご自身が担うからです。この「罪に定めない」とあります「罪に定める」という字が非常に大切です。これは主イエスの十字架の贖いを示す機能を持つ言葉だからです。
特に、福音の頂点と呼ばれるローマ書の8章や5章で、この字が使われて偉大な赦しの福音が宣言されています。「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(ローマ書5:16)」、この最後の部分の、「無罪の判決が下される」、ここに本日の御言葉では、「罪に定めない」と訳されている字が使われています。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」、これが赦しの福音の要約でありまして、この「恵みが働く」これをわかりやすく言い換えれば、主イエスの十字架が罪人に適用される、ということに他なりません。「わたしもあなたを罪に定めない」、これは、この十字架の言葉によってのみ宣言される罪の赦しなのです。
さらに、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ書8:34)」ここで、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」とパウロが歓喜の叫びを上げています、「罪に定める」、というこの字も本日の御言葉で、主イエスが「わたしもあなたを罪に定めない」、と言われている中で使われている言葉です。ここでは、神の右に座しておられる主イエスの執りなしがその根拠になっています。十字架で私たちの罪を帳消しにしてくださった主イエスは、今は天にいまして、私たちが罪を犯してしまうたびに執りなしてくださる、これ以上必要でしょうか。罪の赦しはパーフェクトなのです。私たちがインパーフェクトで欠陥だらけであるにも関わらず、必ず赦されるのです。これが私たちに対する計り知れない主イエスの恵みなのです。
実はヨハネ福音書のプロローグにこの主イエスの恵が律法との関係で端的に謳われています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。(1:17)」、本日の御言葉は、これが具体的に適用された記事の一つである、とも言えましょう。
続けて、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と主イエスは女性を遣わします。
なんと希望に満ち溢れた派遣の言葉でありましょう。「行きなさい」、これは、生きることが許されている前提があって初めて語られる言葉で、この場合、「行きなさい」は「生きなさい」なのです。本来とっくに殺されているはずの者が、その命が保障されて遣わされている。ここには新しい命と新しい生活の希望がございます。
さらに、「もう罪を犯してはならない」、これには驚きしかございません。主イエスは、罪を犯さない彼女を知りません。姦通の現行犯、これがこの女性の全てでした。その女に「もう罪を犯してはならない」、とどうして言えましょうか。しかし、これが主イエスなのではありませんか。主イエスは罪人の友となるためにこの世に来られたからです。この女性を主イエスは友として信頼して、ここから遣わしておられるのです。「もう罪を犯してはならない」、と遣わされて、この女性が罪を犯し続けるのなら、主イエスは彼女の友としてその責任を担うのです。この後、彼女が同じ姦通罪でイエスの前に連れて来られる可能性だって少なくないはずです。人間は弱い者です。その場合、主イエスは責任を問われます。聖書は語りませんが、この女性は心砕かれたのではないでしょうか。号泣しながら新しい歩みを始めたのではないでしょうか。この記録が残されているのは、おそらく主イエスの十字架と復活の後のこの女性の証言からでしょう。当然、罪を犯さないことなどできない。むしろ罪ばかり犯してしまうのがこの女性であり、私たちです。主イエスは、罪を犯さない私たちをも知らないのです。
しかし、その罪を犯すことしかできない罪人を愛し、この愚かな私を信用し、「もう罪を犯してはならない」、と毎週遣わしてくださるのが私たちの友となってくださった主イエスなのです。そして、その私たちの罪を全て担って、その重さにかがみ込み、十字架で死んでくださったのが、主イエスキリストであります。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。(イザヤ53:7)」