2020年04月12日「私は復活であり命である」

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私は復活であり命である

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」ヨハネによる福音書 11章17節~27節

原稿のアイコンメッセージ

本日の御言葉は、ラザロが復活させられた出来事の核心部分といえるところです。

このラザロの復活の出来事は、とても長い記録になっていまして、11章の最初から12章の途中までこれが描かれています。それだけ重要な記録であったのでしょう。

ここでは主イエスとラザロの姉妹マルタとの会話によって真理が導き出されます。

 マルタは、兄弟ラザロの死を目の前に、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。(22節)」このように主イエスにすがります。言葉だけで判断しますと大変立派だと思います。しかしこの信頼にはまだ限界があったことが、次の節でわかります。「イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。(23、24節)」

マルタの主イエスに対する信頼は、死者の復活については限定的であったのです。「あなたの兄弟は復活する」と主イエスは、この死者の復活を現在のこととして言われています。しかし、マルタの目には、それが果てしなく遠い将来の神秘に見えていたのです。実は、この終わりの日の復活というのは当時のユダヤ教の復活理解でありました。マルタのイエスに対する信頼は、このユダヤ教の範囲内であったのです。

 その場合、「あなたの兄弟は復活する」この主イエスの言葉は、彼女にどう響いたか…慰めの言葉でありましょう。19節で描かれています、「多くのユダヤ人の慰め」、この慰めの一つにイエスの言葉も吸収されていくはずでありました。イエスは今弔問客の一人にもなりえたわけです。しかし、主イエスはそれを驚くべき真理によって打ち破られました。

それが次の25節「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」私どものキリスト教は慰めでは終わりません。

 御言葉には力があるからです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」この御言葉の前にもはや慰めはいりません。ラザロが死んだとき、多くのユダヤ人がやってきて慰めた。今でも私たちは慰めの言葉を探します。しかし、死という現実を前に、どれもこれも結局役に立ちません。一つでもありましょうか。死を突破する慰めの言葉が。私たちはもっていません。しかし、一つだけあるのです。いいえ、今与えられたのです。たった一つだけ。それが、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」これなのです。この主イエスの約束だけが、死の厳然たる事実を打ち破り希望を与えるのです。マルタは、遠い日の復活に期待をかけて、それを頼りにラザロの死を受け入れようとあがいておりました。しかし、主イエスのこの約束は根底からそれを覆したのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、最も簡単に言いますと「ラザロは生きている」、ということです。死んで、すでに朽ちていくラザロは生きている、という宣言です。しかし、それだけではありません。主イエスはすでに肉体の死を与えられたラザロだけではなく、今生きているマルタにも約束を与えます。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(26節)」これが、今地上で肉体的に生きているキリスト者への約束です。

すなわち、いずれにしても、もはや肉体の死は決定的問題ではない、ということです。

肉体的に死んでいようが生きていようがそれは決定的な問題ではない。現実的にラザロは死んで墓の中で朽ちている、マルタは生きてその悲しみに打ちひしがれている、このように正反対の二人の姿があり、それを無残に分けたのが肉体の死です。しかし、死んでいるラザロは生きている、生きているマルタは死ぬことはない…イエスのこの約束によって、肉体の死という決定的な人生の終点は、ただの通過点に変わっているのです。

ここで、主イエスは言われます。このことを信じるか。この最後の言葉が非常に大切です。

必要なのは慰めではなくて信仰だということです。死という現実を前に問題なのは、私たちがどう慰めるかではない。どう慰めても無理です。大切なのは、信じるか信じないかなのです。死を前に必要なのは信仰なのです。わたしは復活であり、命である、この信仰に立った時、もはや慰めは不要です。そこに揺ぎ無い希望があるからです。

 さてマルタは回答します。27節「マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」福音書の中でこれほど立派な信仰告白がありましょうか。100点満点の回答ではありませんか。しかし、彼女は主イエスに導かれてこのように告白しました。決して彼女が、信仰告白の言葉を築き上げたわけではありません。そして、実はマルタは、ここでこれだけ立派な信仰告白をしておきながら、この後すぐに主イエスを疑うのです。いざ主イエスがラザロを復活させようとする場面で、彼女は信仰のもろさを露呈するのです。

マルタは、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」、と見事に答えた直後、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます(11:39)」このように疑うわけです。何とも玉虫色の信仰です。しかし、これが私たちの姿ではありませんか。私たちはマルタ以上に立派な信仰告白を持っています。使徒信条から始まり、ウエストミンスター信仰規準をもっております。口にして諳んじます。しかし、その直後疑うのではありませんか。この世の現実を前に、信仰告白の言葉を忘れてしまうのです。

しかし、それでも尚主イエスはラザロを復活させました。

すなわち、私たちを信仰告白に導いてくださるのも、その言葉をこの口に与えてくださるのも、信仰告白の通り実現してくださるのも主イエスである、このように聖書は言うのです。

私たちは信仰が弱いと嘆く必要はありません。むしろ、強い信仰であろうが、弱い信仰であろうが、それは大した問題ではない。信仰を与え、全てを実現してくださるのは主イエスだからです。

最後にここで示されています大切な真理を二つ教えられて終わります。

一つ目、最初に申し上げましたように、このラザロの記録はとても長くて、一人の人物に聖書はこれだけ多くの記事をさいているのです。しかし、面白いことにラザロという男は一言もしゃべりません。いつの間にか死んでしまって墓に入り、死後4日経っていた、すなわちもう完全に死んでいた。彼が何もできないで朽ちていく間に真理が語られ、その後彼は復活させられました。すなわち、この出来事のわき役中のわき役、それがラザロなのです。

主役は主イエスで、私たちは死んだラザロを見る必要はありません。ただ主イエスを見ていればいいのです。私たちは今まで何人大切な人の死を経験したでしょうか。しかし、彼らが主イエスのわき役である以上、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」この約束は何一つ違わないのです。地上を去った愛する人の笑顔や泣き顔を思い出し、胸が苦しくなることもありましょう。しかし、それでも尚、主イエスに目を注いだ時、その顔が今も生きていることを疑いえないのです。

同時に、ここにはもう一人わき役がおります。マルタです。彼女は地上に残された私たちの姿です。彼女はせっかちで、私たちと同じ全く気の利かない信仰者です。信仰と信仰告白の言葉を与えられながら、何度も疑い何度もつまずく…まさにこの私の姿です。それでも彼女が、そして私どもが、主イエスのわき役である以上、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」この約束が違うことはあり得ないのです。

 私たちは、主イエスのわき役です。主役である主イエスに目を注げばよろしい。私たちが間違えても躓いても、転んでも、私たちを救うイエス様は失敗されないからです。

 私たちは、今このように離れ離れに礼拝をささげております。すでに地上を去った大切な方もおられる。しかし、それでも尚、私たちが全て主イエスのわき役であり、今主イエスの体につながれて今永遠の命に生かされている、という事実はなんら変わりありません。

私たちは、離れ離れであろうが、肉体的に死んでいようが生きていようが、永遠の命に生かされている者として、共に今キリストの御前に立っているのです。今ここで天と地を貫いた礼拝がささげられているのです。礼拝こそ永遠の命の宴です。

 それでも、もう一つ大切なことがあります。

それは決して、復活で十字架がチャラになったわけではないということです。

復活の主に見えたパウロは、それでも尚、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた(Ⅰコリ2:2)」と言ってはばかりません。

本日はイースター礼拝で、それぞれの教会で主イエスの復活を喜び、私たちに与えられた永遠の命を喜び祝っております。しかし、それは、十字架と無関係ではありません。十字架を忘れたイースターなどキリスト教でも何でもありません。イースターとは、ハッピーエンドの日曜日ではないのです。それは私たちが罪を犯さない日は一日もなく、生涯十字架の主により頼み、悔い改め続けなければならないからです。このラザロの復活の出来事は主イエスの十字架の道の途上にありました。栄光の神の子、マルタが告白しましたように「世に来られるはずの神の子、メシア」が、こともあろうに、今都エルサレムに、十字架の死に向かっているのです。主イエスは「復活であり、命」です。死という暗闇とは無関係、最も遠い方です。しかし、その命の君が、十字架で死なれるほどに私どもを愛してくださった。この愛に砕かれなければもう駄目です。私たちの罪の赦し、そして復活は、この十字架の愛によって打ち立てられたのです。今日、このイースターの日に私たちに求められていますこと、それは何よりもまず悔い改めることです。十字架の主を仰ぎ見ることです。