2024年01月14日「御子から聖霊へ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

32節 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
33節 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
34節 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
35節 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
36節 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
37節 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38節 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39節 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
ヨハネによる福音書 7章32節~39節

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説教の要約

「御子から聖霊へ」ヨハネによる福音書7章32節~39節

7章に入ってから、仮庵際が背景になって御言葉が語られてきました。本日の箇所は、その仮庵際のクライマックスである最終日が御言葉の語られる舞台になっています。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(37節)」、ここでも主イエスは、「大声で言われた」と記されています。先週確認いたしましたが、これは金切り声、とも言える大きな叫び声です。宗教改革者J・カルヴァンは、この主イエスの叫び声について次のように注釈を入れています。「故意に耳をふさぎ、それを受け入れようとしない人たちでなければ、なんぴともそれを知らないでいることはできないのだ。」、その通りだと思います。主イエスは、都エルサレムのど真ん中で、しかも「祭りが最も盛大に祝われる」その当日に、故意に耳をふさがない限り必ず聞こえる大きな声で、救いを宣言されたのです。ご自身を逮捕しようとしている役人がいることなど百も承知です。エルサレム神殿は、その黒幕の巣窟でもありました。しかし、「大声で言われた」その主イエスの声は、彼の命を狙う者たちの耳にまで響いたのです。それは、渇いている人はだれでもだからです。そうである以上、主イエスに敵意を持とうが殺意を抱こうが、もはやそれは問題ではない、ということです。大切なのは、渇いているかいないか、このことだけなのです。主イエスを殺す目的で、御許にやってきても、渇いているのなら、飲んでも良い、これはそういう論理です。「だれでも」、これは罪人のバリアフリーを約束する言葉なのです。

 さて、以下の箇所が、この7章全体のクライマックスと言える御言葉です。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。(38、39節)」

これは、昨年すでに学びました、このヨハネ福音書の4章に記録されているサマリア伝道の記録の記事で、主イエスとサマリアの女との会話から導き出された真理と同じです。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(4:14)」、ここでは、この「わたしが与える水」とは一体何であるか、それを理解することが大切です、と申し上げて、その証拠聖句としたのが、実は、本日の聖書箇所だったのです。もう一度、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」、この通り、4章でサマリアの女に主イエスが言った「わたしが与える水」、それは、「“霊”」、すなわち聖霊なる神様であります。ですから、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、これは、先ほどの4章の御言葉「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」この真理と全く同じです。両者は交換可能なほどに接近し、同じ永遠の命を約束しています。

 仮庵の祭りのモチーフの一つは水であり、それゆえ、都エルサレムでは、祭りの期間中、近郊にあるシロアムの池から汲んだ水を神殿に運ぶ行列が途絶えず、人々はその宗教行事に陶酔していました。ですから、主イエスは、サマリアの女に、飲んでもすぐにまた乾く物理的な水から永遠の命に至る水を教えられたように、ここでは、仮庵の祭りのその宗教行事で使われている物理的な水を用いて、永遠の命に至る水、すなわち聖霊なる神様を示しているわけなのです。ただの水に偶像崇拝的に陶酔している彼らに、本当に礼拝しなければならない真の水の何たるかをを主イエスは示したのです。ここで、「生きた水」と訳されています部分は、ギリシア語の本文で正確に訳せば「生きている水」です。常に湧き出で、流れ、躍動する水、命の源であり、命そのものである水、この聖霊なる神様が、「生きている水」と喩えられているわけです。

 また、この「流れ出るようになる」、という字は、聖書でここにしかみられない珍しい動詞です。実は、この字の時制が未来形をとっていまして、この事態はまだ起こっていないが、やがて実現する、という意味です。それを解説するように、最後にナレーションが語れられます。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」、このヨハネ福音書が言います「イエスの栄光」、それは何度も確認してきましたように、十字架から始まる救いの御業の実現で、具体的には、十字架、復活、昇天、この出来事全体です。ですから、逆に言えば、イエスが栄光を受けられると、“霊”が降る、ということです。もうお分かりでしょう。これはペンテコステの出来事の予告をするその未来形なのです。ペンテコステ以降、聖霊が降り、信仰者の中に聖霊が泉の水源のように住まい給う、そこから、汲めども尽きぬ永遠の命の水が溢れ続ける、これはこの聖霊が与えられる約束なのです。ですから、ペンテコステ以降のキリスト者である私たちには、必ず聖霊が与えられているのです。そうである以上、この私も「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、その一人であるということです。一つ前の段落は、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」、この主イエスの言葉が強調されて、解答が出されぬままに終わりました。実は、その解答が、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、これなのです。主イエスは御父の許に行かれ、「わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という事態が起こりました。しかし、その時に聖霊が降ったのです。主イエスの十字架と復活を信じる信仰者には、聖霊が降り、それぞれの中に住んでくださって「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、この永遠の命の保証が与えられたのです。主イエスが十字架と復活で救いを実現してくださったのですが、その救いを私たちに適用して下さるのが、聖霊なる神様なのです。救いは主イエスから聖霊へ、なのです。

 その上で、最後に一つ確認したいのは、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、と謳われます「生きている水の川」、この川という字が複数形であるということです。一つの川ではなく、たくさんの川なのです。この複数形は、聖霊の賜物の多様性を示すものでありましょう。

一人一人、信仰者の賜物は違います。祈る賜物、賛美する賜物、御言葉を語る者、献げる者、管理する者、奏楽者、これらは全て、聖霊なる神様がその信仰者の中で働かれている証拠です。大地を潤す無数の川がこの世にあるように、聖霊の賜物も無数にあって、この世を潤し、神の国の完成のために用いられるのです。だから、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」、と主イエスは叫ばれるのです。先ほど、「だれでも」これは罪人のバリアフリーを約束する言葉である、と申し上げました。聖霊の賜物が無数にあるのは、罪人のバリアフリーの根拠でもあります。バリアフリーで集められた罪人が多様であり、その一人一人が異なった賜物を聖霊に用いられて、神と教会に仕えていく、ここに教会の姿がございます。