2024年01月07日「曖昧にしてはならないこと」
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曖昧にしてはならないこと
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- (代読)柳麻理長老
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ヨハネによる福音書 7章25節~31節
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聖書の言葉
25節 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
26節 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
27節 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。
28節 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
29節 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
30節 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
31節 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
ヨハネによる福音書 7章25節~31節
メッセージ
説教の要約
「曖昧にしてはならないこと」ヨハネによる福音書7章25節~31節
本日の御言葉は、先週までの箇所で記録されていた主イエスの仮庵祭での説教や、ユダヤ人たちとの論争が背景になって、描かれていきます。
ここで、「エルサレムの人々(25節)」、と呼ばれる人々が登場してまいります。これは、エルサレム在住の人々のことで、彼らは、上流階級の者が多く、知識人の集まりでありました。その彼らは、主イエスのエルサレムでの活動を観察して、あるいはこの男がメシアであるとユダヤ当局の者たちまで認めたのではあるまいか、と議論を始めました(26節)。ところが、主イエスがナザレのイエスでガリラヤの大工の倅てあることを知っていた彼らは、すぐにそれを却下いたしました(27節)。エルサレム在住の彼らは知識人の集まりでした。その知識が信仰の邪魔になっている、これが彼らの姿によって聖書が鋭く指摘をしているところです。
知識はあればあるほど良いものです。人はそれを吸収するために読書をしたり、日々勤勉に学びます。しかし、忘れてはならないのは、主なる神を超える知識はどこにも存在しない、ということです(ヨブ記38:1〜3参照)。
この彼らの姿を見た主イエスは、「大声で言われた」、と記録されています。この字は、通常「叫ぶ」、と訳され、金切り声のような痛烈な激しい叫び声を指す言葉です。これは、主イエスを「十字架につけろ」、と群衆が叫び続けた場面で使われたり、逆に主イエスご自身が、十字架上で最後の叫び声を上げられた時に使われる言葉であります。ですから、このような場面でこの字が使われるのには、違和感さえ覚えます。しかし、これこそがメシア(救い主)の証拠ではないでしょうか。
主イエスがメシアであるかないのかの議論がなされ、人々は主イエスがメシアではないという結論に落ち着きました。だから、主イエスは叫んだのです。メシアは、今目の前にいるのに、彼らはそれに気づかないでそこを立ち去ろうとしている、だから主イエスは大声で叫んだのです。ここに、このわずかな御言葉に、真の罪人の救い主、すなわちメシアの姿が鮮やかに示されています。
その上で主イエスは続けられます。「わたしは自分勝手に来たのではない。(28節)」、エルサレム在住のユダヤ人たちは、この世の論理だけで主イエスが、メシアではないと決めつけていました。しかし、本当にメシアが神から遣わされる救い主であるのなら、むしろ、この世の論理など何の役にも立たないのではないでしょうか。それがここで主イエスが言われていることです。この世の論理で登場するのは、王や皇帝といったこの世の支配者であって、メシアではありません。「わたしは自分勝手に来たのではない」、これは逆に言えば、皮肉にも真のメシアが神から遣わされることを信じていたユダヤ人たちのメシア信仰そのものです。むしろ、「わたしは自分勝手に来たのではない」、だから主イエスはメシアなのです。ユダヤ人たちのメシア待望が、どれほど形式的で、歪んでいたかがよくわかります。
彼らがこの世の論理でいくらメシアを議論しても、そこには何も起こらないのであります。
最後に主イエスは、言われます。「わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである(29節)」、これは、エルサレムの人々が、「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている(27節)」、と言っていたことに対する痛烈な皮肉になっています。彼らはイエスを知っているつもりでいたのですが、本当は知らない、それを主イエスは言われているわけなのです。
そして、この一言が、人々の怒りを買うことになりました。「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。(30節)」、エルサレムのど真ん中で軽い暴動が起こったようです。しかし、「手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」、と聖書は結びます。「イエスの時」、というのは人々が勝手に作り出せるものではなく、父なる神様の御計画の時であります。もし天の父の御許しがなければ、その時は人が変えることなど絶対できない、そういう時であります。そして、実に私たちが与えられているすべての時が、天の父の御計画の時であります。「どうして今」、と思う時こそ、私たちキリスト者は、その口を閉じて、御言葉に聞き、祈ることが必要なのです。それが特に災害に見舞われた時のこの世に対する私たちの務めでもあります。
さて、ところが、エルサレム在住の人々と仮庵祭に集まってきた人々の中には、イエスの支持者も少なからずいたようです。
「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。(31節)」なんと曖昧な終わり方でありましょうか。
「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」、とまで言えるような男が、今、目の前にいるのです。しかも、彼らは、「イエスを信じる者」、とさえ言われています。
しかし、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」、これは信仰告白とは程遠い、相対的な、客観的な分析にすぎません。おそらく今まで登場したあらゆる偽メシアなど問題にならないほど、主イエスが偉大な奇跡を繰り返してこられたから、このような分析が可能になったのでありましょう。そして、これが、エルサレムのイエス支持者たちの立場でありました。
どうして、彼らは、この男こそメシアである、と信仰告白をできなかったのでしょうか。それは、イエスがナザレのイエスだからです。その出身地が引っかかっていて、彼らはメシア問題を曖昧に終わらせていたのでした。しかし、そのナザレのイエスこそがメシア、キリストなのです。そして、これは何よりも曖昧にしてはならない問題なのです。信仰告白とは、信仰の曖昧さを取り払う機能を持つのです。
今私たちの遣わされているこの時代も、「イエスは誰か」が曖昧にされています。歴史上の聖人、慈善家、道徳の教師、宗教家、革命家、などなど。しかし、「イエスは誰か」これほど曖昧にされてはならない問題はない、ということを私たちは改めて覚えておきたいのです。罪人の救いが、主イエスキリスト、ただこの名にかかっているのですから。実に、「イエスは主である」、とこれを曖昧にしないのが福音宣教なのです。
主イエス様は、メシア問題を曖昧にして御前を立ち去る人々に金切り声まであげて、救いの御手を伸ばされました。その叫びは、十字架上で最後に上げられた声のようでした。この熱心さが、今、私たちの福音宣教に求められているのではないでしょうか。本当に大切な人が滅んでしまうのであれば、私たちも切実な声でお願いして、叫んで、あとは祈るだけしかないのではありませんか。「十字架のイエスこそ、主キリストである」、この一番曖昧にしてはならないことを叫び続けることが私たちの役割です。