2023年12月31日「律法の本質と罪人の実体」

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律法の本質と罪人の実体

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章14節~24節

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14節 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
15節ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
16節 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17節 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18節 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
19節 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
20節 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
21節 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
22節 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
23節 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
24節 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
ヨハネによる福音書 7章14節~24節

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説教の要約

「律法の本質と罪人の実体」ヨハネによる福音書7章14節~24節

本日の御言葉では、仮庵祭の最中に主イエスの命を狙い難癖をつけてきたユダヤ人たちの偽善が律法を通して明らかにされています。主イエスは、「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか」、と言われた上で、「なぜ、わたしを殺そうとするのか(19節)」、とユダヤ人たちに問いかけます。

そもそも律法とは、神の民が神と共に生きるために与えられた神の言葉です。ですから、ここで主イエスがその中心である「十戒」から「あなたは殺してはならない」を引用して、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」、と言われているのは非常に的確で鋭いのです。これは二つの点から確認できます。

 一つは、神の民が神と共に生きるために与えられた「十戒」であるのにもかかわらず、ユダヤ人たちは、主イエスを殺そうとしている、つまり彼らは律法の本質である「生きる」という神の民の祝福を破壊しようとしているわけです。

 同時にもう一つは、この彼らの罪が、律法を機能不全にしてしまっているということです。そもそも律法は、生きるために与えられた神の言葉であるのに、ユダヤ人たちは、彼らの罪によって、これを、自らを死へと定める呪いの言葉へと歪めてしまっているのです。彼らの罪は、律法の機能を命から死へと逆転させてしまっていて、「汝殺すことなかれ」、と語られているのに、殺そうとする、ここに律法の本質と罪人の実体に根本的な乖離があることが示されているのです。

実は、本日の御言葉の背景には、5:1〜18で記録されていました以前このエルサレムのベトザタの池で主イエスが行われたいやしの業がございます。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている(21節)」、これは、このベトザタの池でのいやしが安息日に行われ、そのことにユダヤ人たちが腹を立てて、主イエスを殺そうとした経緯についての要約です(5:18参照)。

その上で、ここで主イエスが指摘されるのは、「だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している(22節)」、この事実です。つまり、ここでは、ユダヤ人たちは、安息日に割礼は施していたのに、主イエスが安息日に病人をいやしたことに目くじらを立てている、この矛盾が指摘されているわけです。

それがさらに具体的に非難されます。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。(23節)」、実は、この節は、この日本語訳ではわかりませんが、ギリシア語の本文では、「人」と言う字が前後で繰り返されていて、それがこの主イエスの言われていることを理解するポイントになっています。この後半部分は、「わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」、と訳されていますが、この「全身」と言うところは、ギリシア語の本文では「人全体」あるいは、「人をそっくりそのまま」が直訳です。「わたしが安息日に人をそっくりそのままいやしたからといって腹を立てるのか」、とこのように主イエスは言われているわけです。つまり、これは割礼が、部分的な清めであるのに対して、主イエスは、あのベトザタの池で病に苦しんでいる人の全身を清めた、そう言う意味であり、ユダヤ人たちの形式的な律法遵守に対する強烈な皮肉にもなっています。部分的な清めは許されて、どうして全体的な清めは許されないのだ、この矛盾です。割礼も主イエスのいやしも人を生かすためのものであります。両者とも、神の民が神と共に生きる、この律法の本質の上になされることです。しかし、割礼よりもはるかに主イエスのいやしの方が人を生かすのです。

 最後に主イエスは、もはや黙り込んでしまった彼らのその根本的な過ちを指摘します。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。(24節)」、ここで「裁く」と言う字が繰り返されています。これは、もちろん「裁く」という意味がありますが、もともとのギリシア語で、この字の最初に来る意味は、「分ける」、「分離する」、或いは「選び出す」、このあたりです。その次に「判断する」、「決心する」、という意味が続きまして、「裁く」というのは、それらからの発展と言えます。ですから、ここはむしろ、「うわべだけで判断するのをやめ、正しい判断をしなさい」、くらいのニュアンスであります。さらに、この「うわべだけで」という字は、「外観」とか「外面」を意味します。ですから「外面で判断しないで、内面を見なさい」、そういうニュアンスもあります。つまり、ユダヤ人たちは、律法の外観である文字だけを誦じて、大切な律法の要求に対しては全く不誠実であったのです。

 本日は、「律法の本質と罪人の実体」、という説教題が与えられました。これは、まさに、このユダヤ人たちの姿から導き出されてきました。律法とは、神の民が、神と共に生きるために与えられたのにも関わらず、ユダヤ人たちは、その命の言葉を、彼らの罪によって、自らを死へと定める呪いの言葉へと歪めてしまったのです。律法の機能が命から死へと逆転してしまっていたのです。

しかし、それでもなお、一つだけ道があるのです。それがキリストなのです。実に、歪められた律法の機能は、キリストによって、今や私たちの罪を指摘し、悔い改めと信仰を与え、イエスキリストに導くこと、これだけなのです。これはパウロがガラテヤ書ではっきり言っています。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(ガラテヤ書3:24)」、この通りです。律法の本質は、命です。しかし、誰一人律法によって命を得ることはできませんでした。その現実においてイエスキリストが、天から降り、その罪なき生涯によって律法を実現してくださった。そればかりか、十字架で死んでくださって、私たち罪人の律法違反の罪を全て洗い流して下さった。このキリストの許にあって初めて律法はその本来の機能を回復し、命になるのです。

 つまり、今や律法の本質はイエスキリストそのお方です。主イエスが律法の全ての義務を果たして下さって、律法を完成して下さったからです。私たちは、悔い改めて、ただこの主イエスを信じる信仰だけが要求されるのです。なんと偉大な福音ではありませんか。私たちは自由なのです。もはや、私たちを罪に定める律法から解放されて、過去、現在、未来の全ての罪が赦され、永遠の命と神の国の世継ぎが約束されている。しかも、私たちの罪人としての実体は変わっていないのにも関わらず、なのです。

 明日から、新しい年が始まります。一年の計は元旦にあり、とはよく言ったもので、確かに物事は最初が肝心であります。しかし、一年たってみるとやはりこの様です。罪人としての実体はどう頑張っても変わらない。しかし、その状態で、私たちはすでに変えられているのです。呪いから祝福へと、束縛から自由へと、死から命へと、変えられているのです。「うわべだけで判断するのをやめ、正しい判断をしなさい」、「外面で判断しないで、内面を見なさい」、そうです。

 大切なのは、私たち自身が、この情けない、そして貧しく弱い外面を見るのではなくて、この内側で、すでに善き業を始められた方がおられることに目を向けることなのです(フィリピ1:6参照)。

 律法を完成して下さった主イエスが、私たちと共におられる、その時、私たちの罪人としての実体がどうであるか、それは問題ではないのです。福音とは、そういうものであります(讃美歌282)。