2023年11月26日「説教者の役割」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10節 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
11節 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
12節 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
13節 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
14節 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
15節 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
16節 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17節 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18節 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
ヨハネによる福音書 7章10節~18節

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説教の要約

「説教者の役割」ヨハネ福音書7:10~18

先週の御言葉の続きで、ここでは、仮庵の祭りの最中にあるエルサレムが舞台になり、「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。(11節)」、このイエスを探し回るユダヤの宗教的指導者たちの姿が描かれます。同時に、群衆の姿も、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。」と記録されています。そして、それは、「 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。(13節)」、このように群衆が、ユダヤ人たちを恐れて、尻込みしていたからです。そして、図らずもこの群衆の姿は、ユダヤ人たちを恐れない主イエスの姿を際立たせています。「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。(14節)」、とこのように、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」、この群衆の姿とは対照的な主イエスの姿が描かれています。お尋ね者ナザレのイエスが、今公然と語っているのです。主イエスは、ガリラヤからエルサレムに向かう道すがら、鳴りを潜め、まるで群衆の一人のようになって上って来ました(10節)。全く存在感がなかったわけです。しかし、御言葉を語り始めた時、主イエスのその存在感は、エルサレムの他の誰にも優っていました。「あの男はどこにいるのか」、あの男は、今目の前にいる、逃げも隠れもせず、神の国の福音を語り続けている。この世の権力者などお構いなしに、今御言葉を語っている。これが説教者の役割ではないでしょうか。本日は「説教者の役割」という説教題が与えられました。ここでまず、その一つ目が提示されています。

 群衆の中にも、イエスを「良い人だ」と言う者もいたのです。しかし、それが公然と語れないで、囁き程度なら、「群衆を惑わしている」、とイエスを非難する反対の立場と似たり寄ったりなのです。そもそも、イエスは「良い人」ではありません。そんなちっぽけな存在ではなく、神の御子です。この世に迎合し、声をひそめて主イエスを「良い人だ」という程度なら、むしろそれこそが、群衆を惑わしているのであって、だったら語らない方がマシです。イエスは主である、これを公然と宣言する。この世のあらゆる権力に抗って、いいえ、その権力のど真ん中で、十字架の主イエスを宣教する、これが説教者の役割です。

しかし、説教者の役割は、決して説教を語る者だけの務めではありません。主イエスはさらに続けます。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。(17節)」ここで、「この方の御心を行おうとする者」、と言う立場の者が出てきます。これは言い換えますと私たち信仰者です。主なる神様を信じる、と言うのは決して心だけの問題ではなく、私たちの生き方を左右する基準ともなるからです。必然的に信仰者は、神の御心を行おうとする者であるのです。その信仰という現実に生きるのであれば「わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」、とこのように主イエスは言われているわけです。つまり、ここでは、説教者だけでなくそれを聞く聴衆に目が向けられているのです。

 説教者の役割、というのは、決して説教の奉仕をする説教者だけの問題ではないのです。それは、聴衆を含めた教会全体の役割なのです。一人一人の信徒は、神の御心を行おうために、それぞれの場所に遣わされ一週間勤しんで、神の御前に戻ってきます。私たちの日々は、退っ引きならない信仰の現実です。ですからその前に語られる御言葉の説教が、思想程度のものであるのなら、何の力にもなりませんし、簡単に見破ってしまうでしょう。

 まず何よりも説教者が神と共に歩み、主の日の備えを続けることです。毎朝、まず御言葉と祈りから始めることです。その上で、自らの信仰と与えられた賜物を用いて説教の準備を始めることです。御言葉の説教は、作るものではありません。そうではなく主なる神からいただくものです。「神から出たもの」とはそういうことです。主の日の直前まで、説教原稿がなかなか仕上がらない、それは与えられていないからです。むしろ、その時間は、与えられた説教と向かい合うためになければなりません。説教者が与えられた説教を本当に語る信仰を持ち合わせているか、その御言葉の説教に、説教者が耐えられるか、原稿を何度も読みながら、それを自問自答するのです。「わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」、と主イエス様が言われますように、神からいただいていない御言葉の説教は、真の信仰者には通用いたしません。信徒一人一人の中に聖霊なる神様が住んでおられて、聖霊は御言葉と共に働きますから、御言葉の説教が神から与えられていないのであれば、悔い改めも慰めも与えられないでしょう。

勿論、その場合信徒一人一人の信仰も問われるわけです。私は、主なる神の「御心を行おうとする者」であるのかないのか、と信徒もまた自問自答しながら、御言葉の説教に備えるのです。この全体を含めて、説教者の役割が問われているのです。「神から出たもの」であるのなら、御言葉の説教は、週ごとに、その教会が直面している信仰の現実に悔い改めと慰めを与えるのです。それにカスリもしない聖書講義であるなら、果たして、それが、神から出たものであると言えるでしょうか。

 さて、最後に、具体的に「わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか」、その基準が示されます。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。(18節)」この通りです。自分勝手に話す者は、神の御栄光ではなくて、自分の栄光を求める。要するに、その場合、御言葉は、自分が称賛される為の手段や道具にすぎないのです。説教者の役割は、その逆で、語る者が、神と神の言葉が賞賛されるために機能することです。御言葉の裏方、黒子、それが説教者です。実に、ここで示されている主イエスの姿がそうです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう(15節)」今主イエスは、学問をしたわけでもない人物程度に見積もられています。「ナザレのイエス」、主イエスは、その真に貧しく低い状態で御言葉の解き明かしをされた。それは、主イエスが、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者であったからです。

 使徒パウロも過去迫害者という身分で福音宣教を始めたことが、神の御栄光を現す結果に至ったことをガラテヤ書で報告しています。「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。(ガラテヤ1:22〜24)」、このとおり、「わたしのことで神をほめたたえておりました」、これが説教者の役割ではないでしょうか。そして、同時に私たちすべてのキリスト者の役割ではないでしょうか。過去どのような者であろうと、今どうであろうと、それは大した問題ではない。むしろ、過去罪を犯し、悔い改めて立ち帰った信仰者が、福音宣教に仕えるから説得力があるのではないでしょうか。わたしが貧しく見窄らしいから、その救い主であるキリストが賞賛されるのではありませんか。