2023年11月19日「わたしの時はまだ来ていない」
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わたしの時はまだ来ていない
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 7章1節~9節
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聖書の言葉
1節 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
2節 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
3節 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
4節 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
5節 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6節 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7節 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
8節 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
9節 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
ヨハネによる福音書 7章1節~9節
メッセージ
説教の要約
「わたしの時はまだ来ていない」ヨハネ福音書7:1~9
本日からヨハネ福音書講解説教は7章へと入っていきまして、ここからは、今までのように背景が慌ただしく変わることはなく、主イエスの宣教の場所が、都エルサレム周辺に固定され、そこから外れることは少なくなっています。さらに、7章と8章では、ユダヤの三大祭りの一つである仮庵の祭りが舞台になって、記事が進行していきます。
ここで御言葉は、主イエスの兄弟たちが登場して、主イエスを批判する場面から始まります。
「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。(4節)」この主イエスの兄弟たちの発言は、図らずも非常に鋭いところをついています。もちろん彼らは主イエスの十字架も知らなければ、復活など頭の隅にもございません。しかし、すぐに明らかになりますが、実にこの彼らの言い分は、主イエスの十字架と復活の伏線にすらなっているのです。
それに対して主イエスは回答されます。「 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。(6節)」ここで主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない」、と言われます。この「わたしの時」とは何でしょうか。もうこれは言うまでもなく十字架と復活の時にほかなりません。そして、これが主イエスの兄弟たちが、前の節言い放った、「自分を世にはっきり示しなさい」、これに対する直接的な回答であります。この「自分を世にはっきり示しなさい」、の「示す」、という字は、復活の主イエスの顕現をあらわす非常に大切な言葉で、この福音書のエピローグ部分で繰り返し使われます。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された(21:1) 」、ここで使われる「現された」、この言葉です。さらに、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である(21:14)」この「弟子たちに現れた」、ここでも「現れる」、という同じ字が繰り返されています。
すなわち、「自分を世にはっきり示しなさい」、という兄弟たちの要求は、十字架と復活によって実現するのであって、「わたしの時はまだ来ていない」、と主イエスが言われた時、主イエスはまさしくご自身の十字架と復活の時に目を向けておられたわけです。
さらに主イエスは続けます。「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。(8、9節)」ここで、主イエスはエルサレム行きを断ったうえで、「まだ、わたしの時が来ていないからである」、と再度言われます。この「まだ、わたしの時が来ていないからである」、これは、6節でも「わたしの時はまだ来ていない」、とすでに語られたうえで、繰り返されるわけであります。
実は、この日本語の本文では、まったく同じように見えて気が付きませんが、ギリシア語の本文では、この両者は使われている字も、文法的なその時制も違いまして、同じ意味を示しているとは思えません。
まず、6節のほうの、「わたしの時はまだ来ていない」、の「来ていない」、この字は、現在形の動詞で、「一緒にいる」、「そばにいる」、「そこに滞在する」、そのような意味がありまして、それがまだ実現していない、そういう状況を説明する「まだ来ていない」であります。そしてこれは現在形でありますので、それが来た以上、常にそばにいる、常にそこに滞在する、そういう意味合いです。すなわち、これは、「主ともにいます」、すなわち、「インマヌエル」の状態といえましょう。そして、これは、主イエスの十字架と復活によって実現する主イエスと私たち信仰者との霊的な交わりにほかなりません。「自分を世にはっきり示しなさい」、という兄弟たちの要求は、最終的に主イエスの十字架と復活によってインマヌエルとして実現する、それが「まだ来ていない」この言葉から読み取れます、
他方、8節の方の「まだ、わたしの時が来ていない」、この「来る」という字は、満たされる、一杯になる、そういう意味での「来ていない」でありまして、「まだ、わたしの時は満たされていない」、とこのように訳した方がわかりやすいでしょう。さらに、この動詞の方はその時制が完了形になっていまして、過去から続いている動作が実現する、そういう意味合いで、「まだ、わたしの時が来ていない」、とこのように主イエスは言われているわけです。
つまり、旧約時代から続いてきた神の救いの御業と預言者たちの言葉、その一つ一つが満たされて、今やキリストの十字架と復活が実現しようとしている、主イエスは、それをここで言われているのです。
すなわち、「わたしの時」とは、インマヌエルが実現する時であると同時に、旧約聖書の御言葉が成就される時でもあるのです。
そして、この両方の「わたしの時」、これは、主イエスの十字架と復活によって実現しました。
しかし、その「わたしの時」は、まだ完成には至っていません。私たちは、御言葉と祈りによる霊的な交わりによって、主イエスがともにいてくださる、主イエスがインマヌエルであることを知っています。また、旧約聖書の預言がキリストの十字架と復活によって実現したことも知っています。
しかし、この両方の主イエスの時が完成し、何の隔たりも、何の遮りもなく、顔と顔とを合わせてみるように、はっきりと私たちがその中に吸収される、この神の国の実現は未完成です。そして、そこに私たちの一切の希望がございます。
「まだ、わたしの時が来ていない」、と主イエスが言われます時、すなわち、その時はやがて来る、ということであります。必ず来る、ということであります。私たちの視野では、それがいつ来るのかがわからないだけの話であって、必ず来ることは確かなのであります。
それゆえに、信仰・希望・愛なのです。信仰・希望・愛、これが、やがて来る「わたしの時」の完成に備える私たちキリスト者の姿なのです。
感染症の後は、自然災害、そして戦争、と私たちの周りの環境はまさに暗闇です。しかし、その暗闇にあってこそ「まだ、わたしの時が来ていない」、このキリストの言葉が響いています。
また私たち一人一人にも「わたしの時」というものがございます。それはかけがえのない、取り戻すことのできない私たち一人一人の人生の歩みという現実です。それが、今とてもつらく苦しい時である、という方もおられましょう。充実した時である、という方もおられましょう。しかし、いずれにしましても、私たちの「わたしの時」はやがて色あせて消えていく「時」であります。
しかし、キリスト者である以上、それは決定的な問題ではありません。私たちには、キリストの「私の時」があるからです。私たちは、今すでにキリストの「私の時」に吸収されて生きております。言い換えますとそれが永遠の命の歩みであります。今がどのような時であろうとも、このキリストの時に生かされている喜びを噛みしめて、地上の歩みを続けていきたいと願います。