2023年11月12日「永遠の命の言葉」
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永遠の命の言葉
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 6章66節~71節
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聖書の言葉
66節 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67節 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68節 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69節 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70節 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71節 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
ヨハネによる福音書 6章66節~71節
メッセージ
説教の要約「永遠の命の言葉」ヨハネ福音書6:66~71
ヨハネ福音書の6章は、本日が最終回で、ここでは、5千人の給食のしるしの意味を解き明かされた主イエスご自身の説教が語られた後に、周りに与えた最終的な結果が、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(66節)」、と示されます。
実は、面白いことに、この離れて行くという字は、聖書の世界において積極的には、主イエスに従うことを意味するためにも使われる字なのです。「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:20)」、この「イエスの後について行った」、の「ついて行く」、という字、これが本日の御言葉のほうでは、「離れて行く」、と同じ字なのです。何かについて行く、というのは、あるものから離れることであり、あるものを捨てることである、この大切な聖書的理解がこの字で表現されています。ですから、「このために、弟子たちの多くが離れ去り」、逆にこれは、主イエスを捨てて、この世のものについて行った、そういう意味を持っているのです。
次のペトロの 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」、この回答もこのことを裏付けています。主イエスを離れる=誰かについて行く、それが聖書的な理解であり、私たち罪人の立場です。実に、キリスト者というのは、生きていくためにほかに当てがないからキリストのもとにとどまり、イエスの後について行くのではないでしょうか。教会を離れる、というのは、キリストなしでもちゃんと生きていけるからです。不自由なくやっていけるからです。しかし、十字架の主イエスキリストがいなければ生きていけない、それが私たちキリスト者であります。だから、私たちはこのように教会に結び付けられ、礼拝を中心とした信仰生活を続けることが許されているのです。
そのうえで、ペトロは、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」、と続けます。これを「ヨハネ福音書版ペトロの信仰告白」、と呼ぶことが多いようです。共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカでは、フィリポ・カイザリアでなされた「あなたはメシア、生ける神の子です(マタイ16:16他)」という有名なペトロの信仰告白が記録されていますが、このヨハネ福音書だけその記事がございません。実に、共観福音書で示された「あなたはメシア、生ける神の子です」、これがこのヨハネ福音書では、「永遠の命の言葉」、として告白されていて、両者が指し示す真理は結局同じです。
しかし、共観福音書とヨハネ福音書の両方で、このペトロの信仰告白のすぐ後に、重大な事実が示されています。マタイ福音書では、ペトロの信仰告白の場面が、「 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。(マタイ16:15、16)」、と記録されています。これは、すべての信仰告白の土台であり、すべてのキリストの教会がこの信仰告白の上に建てられる非常に大切な御言葉です。しかし、その直後、このペトロがサタンと呼ばれるのです。「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。(23節)」、この通りです。これに対して、ヨハネ福音書のペトロの信仰告白の直後、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。(70節)」、と主イエスは言われます。「その中の一人」とは、ユダのことであり、つまり、ヨハネ福音書では、ペトロの信仰告白のその直後、「その中の一人は悪魔だ」、と言われたのはユダであったのですが、共観福音書のほうでは、それがペトロなのです。戦慄を覚えるような御言葉が示す事実です。ペトロもユダもサタンの誘惑には全く太刀打ちできなかったわけです。私たちは誰一人サタンの誘惑には勝てないのです。もし、勝てているように思えるなら、まだ負けるような誘惑が与えられていないだけの話です。
マタイ福音書の記事では、主イエスは、「サタン、引き下がれ」、とペトロを叱られた後、「神のことを思わず、人間のことを思っている」、と指摘されました。つまり、ペトロは今、イエスの後について行くのではなく、この世の後について行こうとしているのです。これはユダも同じでした。最終的に彼は、銀貨30枚の報酬を受けて主イエスを引き渡したのです。
同じように、私たち信仰者には常に問われている信仰的立場があります。それは、イエスの後について行くのか、この世の後について行くのか、この2択です。私たちはサタンには勝てませんが、主イエスはサタンを打ち破り、すでに勝利を得ています。私たちが、このキリストの勝利の列に連なるときにだけ、キリストがサタンを打ち破ってくださるのです。
すぐる週、臨時会員総会を開催しまして、その決議として、新会堂建築の施工業者が決定いたしました。この数年間、議論を重ねてきた新会堂建築が、本格的に動きだしたわけです。
約50年前に、この高島平の地に開拓伝道が始められ、2003年に坂戸教会の献身で会堂がリフォームされ、2005年に教会が設立され、私たちは、ここまで歩んでくることが許されました。この歴史を振り返ります時、本日招きの言葉で与えられた古の信仰者の詩が響きます。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。(詩編103:2)」
新会堂建築は、今度は、今ここにいます私たちの献身であり、私たちの教会の新しい歴史の幕開けです。そして、それは、主イエス様のお役に立ちたい、これがすべてであり、「何ひとつ忘れてはならない」、ここから導き出される信仰的回答であります。
開拓伝道を始めた信仰、リフォームをして新たに福音宣教を始めた信仰、私たちは、その信仰に続くことが出来るでしょうか。今こそ、イエスの後について行くのか、この世の後について行くのか、改めてこれを自らに問いたいと思います。
本日は、「永遠の命の言葉」、という説教題が与えられました。「シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」、私たちも同じです。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」どこにも行くところがないのです。だから、この高島平キリスト教会集められ、福音宣教に仕えているのです。そのうえで私たちは、さらにこの地に永遠の命の言葉を響かせたいのです。これが、新しい会堂建築の目的であります。