2023年11月05日「肉は何の役にも立たない」

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肉は何の役にも立たない

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章60節~65節

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60節 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61節 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62節 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63節 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64節 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである
65節 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
ヨハネによる福音書 6章60節~65節

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説教の要点

「肉は何の役にも立たない」ヨハネ福音書6:60~65

先週までで、五千人の給食の出来事の後に、その意味を解き明かすために語られた主イエスの説教の記録が終わり、本日の個所から、この6章の終わりまでは、その主イエスの説教に対する聴衆の反応と、説教が語られたその結果が描かれています。

 そして、真っ先に説教を聞いた聴衆、しかも主イエスの弟子たちが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。(60節)」、とこの説教を評価していることが記録されています。

それに対して、主イエスは、「あなたがたはこのことにつまずくのか。 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。(61~62節)」、と回答します。

この「このこと」、これは、主イエスが語られた説教で、とりわけその説教の中心的真理であります説教の結論部分の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。(54節の)」、この主イエスの約束、これが「このこと」です。そのうえで、「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば」、この人の子がもといた所、これは天であります。人の子、すなわちメシアである主イエスは、天から下ってきて命を与える真のパンであって、その天から下ってこられた方が、もといた所に上る、と言われているわけです。これはすなわち、これから実現するキリストの十字架と復活、さらにキリストの昇天です。

 ですから、この部分を敷衍してわかりやすく整理するとこのようになります。「あなたがたは、今私が話した言葉につまずくのであれば、これから実現する私の十字架と復活と昇天は、さらなるつまずきになるだろう。」、主イエスの言葉につまずくのであれば、これから先どのような奇跡が、目の前で実現しても、決して信じることはできない、これはそういう意味なのです。御言葉を信じないのなら、何が起こっても無駄なのです。

 そして、続いて、御言葉を信じるために、決定的な助けが必要であることが示されます。

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(63節)」、ここで主イエスが言われます、「命を与えるのは“霊”である」この「“霊”」とは勿論聖霊なる神様です。命のパンであり、命の言葉であるキリストを理解させ、私たちとキリストを結び付けてくださるのは、聖霊なる神様なのです。それ以外に、私たちが命を与えられる方法はないのです。ですから、「肉は何の役にも立たない」、これは、この聖霊のお働きとの関係でいわれているのであって、私たちのこの肉体が全く無意味なものであって、何の役にも立たない、と主イエスが言われているわけではないのです。ここで言われている「肉」というのは、聖霊なる神様と無関係に生きる人間を指します。その場合、肉体もその魂も、「肉」に過ぎないのです(16:1、13参照!)。

 そして、さらに大切なのは、先週から確認してきましたように、御言葉の説教と聖餐式とは一体である、ということです。ですから、命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない、これはキリストの言葉に対して言われているのと同時に、聖餐式に対しても適用されているのです。聖餐式のパンと盃に、聖霊なる神様と無関係に与るのなら、その礼典は何の役にも立たない。聖霊と無関係にいただくのなら、むしろ、あのように千切った小さなパンを分け合うのではなく、丸ごといただいた方が腹の足しになってよろしいでしょう。しかし、あの聖餐式の場で、聖霊なる神様が、命のパンであるキリストを私たちに結び付けてくださる。しかも、私どもは一つのパンを分かち合い、共にいただくことによって、一つのキリストの身体である、という事実をこの目で確認しながら理解できるのです。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」、これは、御言葉も、聖餐式のパンも、聖霊なる神様のお働きによって私たちの信仰を養い、永遠の命の糧とされることを謳った御言葉なのです。

さて、主イエスは続けます。「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。(64節)」、この節の「しかし」は、前の節の、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」、に対する逆接です。主イエスが、ここまで語られた説教は、霊であり、命であって、ここに永遠の命が提供されているのです。そのうえで、「しかし」なのです。「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」、ですからこれは、キリストの言葉によって提供された永遠の命を拒否する、そういう姿勢です。今、目の前に永遠の命が差し出されているのです。しかし、それを辞退される方が、いかに多いことでありましょうか。さらに、主イエスは言われます。

「そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。(65節)」、これは、主イエスが説教の中でも言われていましたように(6:44)、私たち罪人が救われるのも、滅びるのも、父なる神の招きがあるかないかにかかっている、この聖書の示します真理です。これを通常、選びとか、予定論、という教理用語で説明しまして、とりわけ私たち改革派教会は、この教理を強調します。人間の功績のようなものは、救いの根拠にはならない、それが、一貫した私たちの立場です。キリスト教会の中でもこの予定論に対する理解や立場は一様ではなく、予定論を否定的に論ずる教派もあります。その多くはこのように反論します。「最初から救いと滅びが神のご計画で決定されているのなら、滅びる者に福音を語っても無駄であって、福音宣教の妨げとなる。」、このような立場です。

しかし、いかがでしょうか。その滅びる者にも今主イエスは福音を語っているのではありませんか。「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた(64節)」、この状況で御言葉の説教を語っておられたのです。御言葉の説教の前に、信じる者であろうが信じないものであろうが、あるいは裏切り者さえも、同じ立場で招かれていたのです。これが、予定論が成り立つ福音宣教の現場であります。信じないものにも、裏切り者にも最後の最後まで、その救いの御手が差し出されている。予定論は、罪人の頭でさえも救われるために招かれている、という神の憐れみを謳う聖書的真理なのです。

予定論を人間視点で眺めて宿命論にすり替えるから、そこに反論が生まれる余地ができるのです。何よりも、この私という一人の罪人の救いを予定論なしにどう説明できるでしょうか。あるいは、救われたこの私が地上の生涯を終えた時、天の御国に入れられるその確信を予定論なしにどのように説明できるでしょうか。私にはできません。

 ただ、神の一方的恩恵によって、生まれる前から救いに選ばれ、罪を重ねても十字架の贖いによって許され、何度も転倒しながら、それでも天国に導かれる、これ以外に私の救いを説明できないのです。「肉は何の役にも立たない」のです。私たちが、信仰生活の途上で、或いは、生涯の終わりに自らを振り返り、犯し続けてきた罪の数々と、神の恩恵を数える時、最終的に立ち上がるのは、命を与えるのは“霊”である。「肉は何の役にも立たない」、このキリストの御言葉ではありませんか。

実に「肉は何の役にも立たないから」、私たちの救いは確実なのです。