2023年10月29日「キリストによって生きる・宗教改革の信仰」

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キリストによって生きる・宗教改革の信仰

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章52節~59節

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聖句のアイコン聖書の言葉

52節 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。」
53節 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54節 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55節 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56節 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57節 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58節 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59節 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
ヨハネによる福音書 6章52節~59節

原稿のアイコンメッセージ

2023.10.29「キリストによって生きる・宗教改革の信仰」ヨハネ福音書6:52~59

先週は、近隣4教会による講壇交換でありましたので、一週空きましたが、本日の御言葉は、ヨハネ福音書の6章の中に記録されています主イエスの説教の最終回となりまして、いよいよこの説教の結論がここで示されていきます。

主イエスの説教を聞きながら、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたユダヤ人に対して、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。(54節)」、とここで主イエスは宣言されました。この「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」、これは聖餐式に与る者に他なりません。つまり、ここでは、聖餐式に与る者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる、と主イエスは約束されているのです。聖餐式とは、何と偉大な宴でありましょう。今まで、この主イエスの説教は、「信じる者は永遠の命を得ている」、この真理が示されてきたわけですが、それを保証するのが聖餐式である、とここでは、永遠の命が聖餐式と結合されているのです。

今月最後の日であります10月31日は、マルティン・ルターによって宗教改革の口火が切られた日であります。それで、私たち改革派教会を含めたプロテスタント教会全体は、毎年10月の最後の主の日にとりわけ宗教改革を覚えて、その信仰に立って礼拝をおささげしています。

この御言葉の説教の後に、宗教改革を謳った讃美歌282番で主なる神様を賛美いたします。その第2節の途中で、「律法より解かれし、自由の喜び」と謳われますが、実に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」、この御言葉がその「律法より解かれし、自由の喜び」の根拠であります。旧約時代に神の民は、律法を授けられ、主なる神と共に歩む祝福が与えられましたが、自らの罪によって、律法は、彼らを束縛する機能を持つようになってしまったのです。本来自由に生きるために与えられた律法が、神の民の罪のゆえにその本来の機能を果たすことが出来なくなってしまったのです。その結果彼らは、罪の赦しの儀式を延々と続けてきました。それが、主イエスの十字架によって、一切不要になり、それどころか「神の家族」として、聖餐式という主の宴に招かれるこれ以上ない身分まで与えられたのです。私たちは、聖餐式に与る度に「律法より解かれし、自由の喜び」、この偉大さに目が開かれたいと願います。

そうである以上、私たちに問われるのは、では、本当に私たちは、天から降って来たパンである主イエスをいただいているのか、という教会的な、さらには教派的な反省です。或いは、先祖が食べたのに死んでしまったような(58節)パンをまんまと食わされていないでしょうか。

 本日は、「キリストによって生きる」という説教題が与えられました。結局、これがこの主イエスの説教の結論ともいえるからです。「キリストによって生きる」、それは、異物が混入していない天から降って来たパンである主イエスをいただくことであり、これこそが御言葉によって改革され続ける私たち改革派教会のあるべき姿です。教会の中に、必ず異物が混入してくることは、聖書と2000年の教会史が証言しています。宗教改革も堕落して不純物の吹き溜まりと化した中世のカトリック教会との戦いでした。そして、宗教改革者たちが、その戦いの剣としたのが、神の言葉であり、御言葉の説教でした。ただ聖書の御言葉が示すままの天から降って来たパンである主イエスが、御言葉の説教でその姿を現される、これが説教の役割であり、これこそが宗教改革者たちの剣そのものでした。御言葉の説教とは、命のパンである福音が提供するがままの十字架の主イエスキリストを示すことであり、その時、御言葉の説教は私たちの教会の剣となります。

その上で、非常に大切なこととして、私たち改革派教会の立場は、御言葉の説教と聖餐式は一体である、ということです。説教は御言葉のパンであり、聖餐式のパンはそれを具現化したものです。つまり、御言葉の説教に異物が混入していても、聖餐式のパンは大丈夫なんてことはないのです。説教が、先祖が食べたのに死んでしまったようなパンであるなら、聖餐式のパンも同様です。

 実は、本日の御言葉の中に、御言葉の説教と聖餐式のパン、この両者が当然純粋でなければならないことを指示した面白い言葉があります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。(54節)」、この「わたしの肉を食べ」とあります「食べる」、という字、これは、それまで使われてきた「食べる」という字とは、区別されています。例えば、52節途中からの、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」、この「食べさせる」で使われる「食べる」、という字とは違う言葉が使われていまして、この54節の「食べる」、という字の方は、非常に珍しい言葉で、新約聖書で6回しか使われていません。そして、実にそのうちの4回が本日の御言葉の中にあるのです。この54節の後、56節の「わたしの肉を食べ」、この「食べる」、という字、57節の「わたしを食べる者もわたしによって生きる」この「わたしを食べる」の部分、そして、58節の「このパンを食べる者は永遠に生きる」この「食べる者」のところ、これらはいずれも同じ字です。そしてこの字は、通常使われる「食べる」、とは違って「むしゃむしゃ食べる」、「音をたてて食べる」、そう言う意味を持つ言葉です。出された食事に異物が混入していたらこんなことできません。聖餐式のパンは、執事さんが朝早くいらして、白衣を着てマスクと三角巾を付けて、ポリ手袋まで着用されて、清潔な環境で作業したうえで聖餐式の器に入れて聖餐台まで運ばれます。ですから、そこに異物が混入しているなんて疑って食べる方は一人もおられません。皆さん安心していただく。それが、この「食べる」、という字の示す意味なのです。

では、命のパンであり、聖餐式のパンと一体である御言葉の説教はどうか。実は、それが常に問われなければならないのです。安心して、何の躊躇もなく聖餐式のパンをいただくように、御言葉の説教をいただいているか、それが説教者と聴衆に問われていて、私たちの教会と教派の命にかかわる大問題なのです。異物が入った御言葉の説教を安心してそのまま頂いていたら、霊的食中毒をおこし、やがて信仰者と教会は倒れていくでしょう。先祖が食べたのに死んでしまったようなパンを、音をたてて食べていても気が付かないほどに信仰が鈍感になってしまったら、それは霊的な仮死状態です。異物だけではなく、賞費期限切れのパンにも気を付けなければなりません。命のパンである御言葉の説教は、御言葉に忠実でありながら、常にその時代に向き合った新しいものであるはずです。説教は決して昔話ではなく、今を生きる信仰者の現実となるからです。

 宗教改革を覚える時、私たちは、御言葉から不純物を取り除くために戦ってきた宗教改革者たちの信仰に立たなければなりません。宗教改革の旗印は、聖書のみ信仰のみ恩恵のみです。しかし、この地上の教会である以上、この三つの全てにいつの間にか異物が混入していくのが事実です。エピソードや証のようなものが聖書の御言葉以上に幅を利かせる。信仰のみが、いつの間にか、行いが必要に感じていく。恩恵のみもやがて曖昧になっていく。これが地上の教会です。だから、常に御言葉に改革され続けなければならないのです。「キリストによって生きる」、これは純粋な御言葉によって生きることであり、これこそが私たち改革派教会の立つべき宗教改革の信仰です。