死から命へ
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 6章47節~51節
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聖書の言葉
47節 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48節 わたしは命のパンである。
49節 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50節 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
51節 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
ヨハネによる福音書 6章47節~51節
メッセージ
説教の要約
「死から命へ」ヨハネ福音書6:47~51
本日の御言葉は、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(47節)」、この大切な主イエスの約束から始まります。先週も確認いたしましたように、ここで、「信じる者は永遠の命を得ている」、と主イエスは言われます、この得ている、という動詞の時制は現在形で、つまり信じる者は、地上の生涯にあって、もうすでに永遠の命を得ているという理解です。そして、これこそがヨハネ福音書が最も強調している永遠の命の真理です。
先週の御言葉では、父なる神様が、私たち罪人を積極的に救い出してくださる姿が描かれていました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。(44節)」、すでに確認しましたように、この「父が引き寄せてくださらなければ」の引き寄せる、という字は、漁師であった主イエスの弟子たちが、魚がたくさん入った網を「引き上げる」時に使われる「引き上げる」と全く同じ字でありました。投網で多くの魚を引き上げるように、ありったけの罪人を引き寄せる、この御父のお働きでありました。
しかし、湖を自由に泳いでいた魚にとっては、これはたまったものではありません。投網に引っかかってもはやこれまでであります。しかし、神の招きと言うのはそう言うものではありませんか。この世の暗闇を自由に泳いでいたのです。その闇の一部に網が投げられ、それに引っかかったのが運の尽き、と思いきや実はそれが救いの始まりであった。これが神の招きであります。教会の案内を見て、家族や友人に誘われてとか、幼い日に日曜学校に通っていて懐かしさついでに、或いはミッションスクールの課題で、などきっかけは色々ありましょう。最初は付き合い程度であったし、永遠の命などあまり用はなかった。むしろ今を生きることで精一杯で、それが全てであった。「永遠の命、いいよ、そんなもの、余計なお世話だ」、そう言う立場の方だっておられたはずです。しかし、それが神の引き上げられる投網である以上、必ず信じる者とされ、永遠の命が与えられているのです。きっかけがどうであれ、動機がどうであれ、それが神の招きであるなら、罪人は必ず救われるのです。「信じる者は永遠の命を得ている」、この短い御言葉に、語り尽くせない神の恩恵が溢れているのです。
そのうえで、大切なのは、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(51節)」、とここで、「わたしが与えるパン」と言い方が変化するところです。
今までは、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」のであって、その「天から降って来た生きたパン」が主イエスである、という理解でした。しかし、ここではそれが「わたしが与えるパン」へと発展しているのです。パンは、主イエスが与えてくださる。ですから、「わたしが与えるパン」それは聖餐式のパンであります。そして、これがいよいよ、この後次回の52節からの箇所で聖餐式との関係で示されていってこの説教の結論へと展開していくわけです。これは次回にいたしまして、本日の御言葉は、結局は最初の「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(47節)」この主イエスの約束を証明する機能を持っていた、と申し上げてよろしいでしょう。そして実に、「信じる者は永遠の命を得ている」これこそが、このヨハネ福音書全体の結論ともいえます。
今まで、申し上げてこなかったのですが、実は、このヨハネ福音書には、「信仰」という言葉がありません。これは新約聖書の中では極めて異例で、新約聖書には27の書物が含まれていますが「信仰」という字が見当たらないのは、実は3つだけで、それは、このヨハネ福音書とヨハネの手紙のⅡとⅢ、これらの書だけであります。ヨハネの手紙のⅡとⅢはそれぞれ一ページしか分量がありませんから全く不思議ではありませんが、このヨハネ福音書に信仰という言葉がないところに、この福音書の独自性を見ることが出来ましょう。
そして、ヨハネ福音書におきまして信仰に代わる言葉が、実は、この「信じる者」、これなのです。「信じる者」と「永遠の命」との組み合わせが、この福音書の救いを示す大切な表現なのです。
これは、今までも何度も引用してきたこの福音書ばかりか、神の愛を謳った聖書全体の頂点ともいえる御言葉にも見られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、これです。このように、「信じる者」が「永遠の命」を得る、これが宣言され約束されるのが、この福音書でありまして、一つ一つ確認していきますといくら時間があっても足りないほどです。
もう一箇所だけ、このヨハネ福音書の結論ともいえる部分を確認したいと思います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:31)」この通りです。文字通りこれが、ヨハネ福音書が執筆された目的です。ここでも「主イエスに対する信仰」のような表現は使わず、「信じてイエスの名により命を受ける」、と「信じる者」が「永遠の命」を得る、というこの福音書が示してきた罪人の救いを最後に見事に結論付けています。そして、これが、ヨハネ福音書が示す死から命への神の御業なのです。
或いは、これが、以前私たちが学びましたローマ書になりますと「信仰義認」という表現に置き換えられます。「信じる者」が「永遠の命」を得る、それはローマ書では、「信仰」によって「義とされる」そう言うアプローチが中心になります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマ書5:1、2)」これが、いわゆる信仰義認であり、パウロの示す救いの構図です。「わたしたちは信仰によって義とされた」、これはヨハネ福音書の「信じる者は永遠の命を得ている」、と同じ救われた信仰者の立場です。「死から命へ」という罪人が救われる状態は全く同じなのですが、聖書が示す罪人の救われるための福音のアプローチは一つではない、ということなのです。ローマ書が書かれた背景とヨハネ福音書が書かれた背景が違うように、私たちの遣わされる場所も多様であります。ですから、私たちが福音宣教に仕える時、どのようなアプローチで主イエスの十字架を宣教するかは、非常に重要な課題です。多くの場合、私たちの国のような異教社会に「わたしたちは信仰によって義とされた」と宣言しても恐らくあまり響かないでしょう。むしろ、「信じる者は永遠の命を得ている」このヨハネ福音書の福音は、私たちの同胞に響くのではないでしょうか。とりわけ希望を失い、救いを求めている方に。むしろ、生きて行くのが辛い、そう言う方にこそ永遠の命の福音を届けなればならないのです。しかし、まず私たちが、「信じる者は永遠の命を得ている」この御言葉に立つことであります。私たちこそが「信じる者」だからです。私たちの役割は、信じさせることではない。それは、主なる神のお働きです。主なる神は、暗闇を泳いでいる罪人を救いあげることがおできになる。私たちの役割は、信じさせることではなく、信じることです。死から命へと180°変えられたこの幸いを身体中で喜ぶことです。