2023年10月08日「永遠の命の法則」
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永遠の命の法則
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 6章41節~47節
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聖書の言葉
41節 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
42節 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43節 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
44節 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45節 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46節 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47節 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
ヨハネによる福音書 6章41節~47節
メッセージ
説教の要約「永遠の命の法則」ヨハネ福音書6:41~47
五千人の給食の出来事を解き明かす主イエスの説教が続いています。改めてよく見ますとこの説教は、湖の向こう岸で群衆に語られた部分(26~40節)とカファルナウムの会堂で語られた部分(41~59節)の二つに分かれていて、本日の御言葉からこの説教の第二弾に入っていくわけです。ですから、前回まで群衆に語られた大切な真理が、微妙に表現を変えながら、ユダヤ人たちにも示されていきます(*何度か確認しましたように、ヨハネ福音書が、ユダヤ人たち、と言います時、それは、ユダヤ社会の指導者層を指しまして、祭司や律法学者やファリサイ派のことです。)。
特に、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。(37節)」、と前回言われていたことが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない(44節)」、と前回の「父がわたしにお与えになる」が、ここでは、「父が引き寄せてくださらなければ」、と表現が変わり、罪人の救いに父なる神様が、より積極的に関与してくださっていることが明らかにされています。
先週は、父なる神様の御心である私たち罪人の救いが、十字架の主イエスによって実現したことが鮮やかに示されました。しかし、父なる神様は、天という高いところでそれを見物されているのではないのです。御父ご自身が、罪人を引き寄せてくださっているのです。
この引き寄せる、という字は、このヨハネ福音書のエピローグ部分で主イエスの弟子が、魚の入った網を引き上げる時に繰り返し使われる言葉です(21:6、11参照)。シモン・ペトロは、「人間をとる漁師にしよう(マルコ1:17)」、という主イエスの言葉に従いました。投網で多くの魚を引き上げるように、ありったけの罪人を引き寄せる、ペトロは、その言葉に打たれたのでしょう。しかし、そのダイナミックな救いの御業は、実は天の父なる神様に遡るのです。
ですから、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。(44節)」、ここには、父なる神様と御子である主イエス様の、救いの御業の一体性が、実に見事に表現されています。父なる神様は、罪人の救いを永遠の昔に予定されただけでなく、今もなお全てを支配されるその摂理の御業によって、罪人を主イエスの許に引き寄せてくださる。そして、主イエスは、ご自身のところに引き寄せられた罪人を一人も漏れることなく終わりの日に復活させる、これが罪人の救いの構図です。
私たちが、主イエスの言葉に、或いは聖書の中に「父なる神」を見つける時、大切なのは、天地万物創造の主なる神であると同時に、その神は摂理の神である、ということです。しかし、それだけではまだ不十分です。さらに大切なのは、その神が、十字架の主イエスの父なる神である、という事実です。天地万物を甚だ善きものとして創造され、今も、そして世の終わりまで摂理の御業で最も賢くそれら全てを統べ治められる主なる神が、十字架の主イエスによって、私たちの父なる神となってくださった、これなのです。キリスト者である以上、たとえこの地上で一人になりましても、私たちの真実な救い主イエスキリストが共におられ、さらにその御父が、私の父として、実の子のように、この私を養ってくださる、この約束が生涯なくなることはあり得ないのです。
さらに、「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。(45、46節)」ここに、御父と主イエスの一体性がさらに確認されます。「父から聞いて学んだ者」これは、以前主イエスが言われた「聖書はわたしについて証しをするものだ。(5:39)」という真理を信じるものです。「聖書が主イエスについて証しをするものだ」、それを御言葉によって知った時、主イエスのもとに来る他なくなるからです。
そして、その時、直ちに「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(47節)」、と永遠の命が約束されるわけなのです。本日は、この節で終わりますが、実はギリシア語の本文では、この47節から新しい段落に入っています。それで、次週は、この節を再度細かく確認してから以下を読み進めて、段落がいったん終わる51節までを学ぶ予定です。あえて、この節までお読みしましたのは、今朝は、「永遠の命の法則」という説教題が与えられていまして、この節を含めて、本日の御言葉に私どもの永遠の命の法則が提示されているからです。
ここで、「信じる者は永遠の命を得ている」、と主イエスは言われます。この得ている、という動詞の時制は現在形です。つまり信じる者は、もうすでに永遠の命を得ているという理解です。この地上での生涯が終わった後で、この肉体の命が永遠の命に変わるわけではないのです。実に、信仰者は、この地上の命、肉体の命を持ちながら、すでに永遠の命に生かされている。これは、今までも幾度か確認してきましたこのヨハネ福音書が示す永遠の命の特徴です。
しかし、本日の御言葉では、同時に、終わりの日の復活についても言及されているのです。「わたしはその人を終わりの日に復活させる(44節)」この通りです。これは先週与えられた御言葉の39節と40節、或いは、この先の54節でも同じ「終わりの日の復活」として宣言され約束されています。
しかし、実は、このヨハネ福音書が「終わりの日の復活」について言及する御言葉は、この4か所だけなのです。後にも先にももうお目にかかれないのです。つまり、本日の御言葉では、私たちキリスト者がもうすでに「永遠の命を得ている」という約束と、「終わりの日の復活」の約束が同時になされていて、両者は矛盾しない、ということが明らかにされている極めて大切な箇所になっているのです。
そしてこれが永遠の命の法則です。永遠の命は、一方では、すでにいただいているという圧倒的な平安を約束されながら、他方では、終わりの日の完成に希望を抱き思い焦がれる、その両面から保証されているのです。
アンチエイジングという言葉が流行り出して、もう数十年が経ち、確かに年齢を感じさせない方が、多くなっていると思います。そうは言いましても、やはり歳を重ねると、少しずつ若い日の姿が失われていくわけです。また、若い日に苦労されたり、病を経験された方の中には、アンチエイジングしたくてもなかなか叶わない場合もありましょう。しかし、私たち信仰者は、老いた姿がどうであれ、アンチエイジングではなくて、むしろエンジョイエイジングともいえる老いとの向き合い方が許されているのではないでしょうか。老いに抗うのではなく、老いを喜ぶ。それは、どんなに衰えていこうが、その人生のあらゆる場面で永遠の命が約束され、たとえ、肉体の死を迎え、この身体が萎れて朽ち果てようが、終わりの日に栄光の身体に復活される、という永遠の命の法則が与えられているからです。
素朴な日常の中で、アンチエイジングではなくエンジョイエイジング、ここにも私たちの幸いを見つけたいと願うのです。