2023年10月01日「御父の御心」

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36節 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
37節 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38節 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39節 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40節 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
ヨハネによる福音書 6章36節~40節

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説教の要約「御父の御心」ヨハネ福音書6:36~40

五千人の給食の出来事の意味を解き明かす主イエスご自身の説教の記録が続いていて、本日の御言葉は、先週に続いてこの主イエスの説教の中心部分で、実は、ここからこの説教は、「わたしが命のパンである」、という主イエスの宣言が中心になって最後まで展開されていきます。

 まずここでは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)この主イエスの約束が非常に大切です。これは聖餐式の招きの詞で毎回必ず朗読される御言葉で、実に、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」、この安心感に満ち溢れているところが教会であり、主の晩餐ではありませんか。

 思い返してみれば、私たちは、この世におきまして、何度も追い出されてきたのではないでしょうか。「何しに来た」と言われなくても、肌で感じて出ていったこと、身分不相応だと思って逃げ出したことも。今も、遣わされた場所で忍耐しながら勤しみ、いてもいなくても同じだ、と思う時もあるかもしれない。しかし、他ならぬ教会の頭主イエスが、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と宣言されている以上、私たちがいかに貧しくても、罪深くても、「安かれ」なのです。それが教会です。主イエスが御許に招かれたのは、徴税人や遊女たちでした。それは、主イエスが彼らを愛されたからで、いてもいなくても同じだなんて人間は、主イエスの周りには一人もいなかったのです。

これは、この世が決める人間的価値と正反対ではありませんか。大切なのは、私たちの状況ではなく、私が「わたしのもとに来る人」、すなわち主イエスの許に来るか来ないか、それだけなのです。身分不相応という言葉は、教会と聖書にはあり得ないのです。

 その上で注目すべきは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」それは「わたしをお遣わしになった方の御心」、すなわち、御父の御心であったということです。そして、その父の御心が、すぐ後で、「わたしをお遣わしになった方の御心とは(39節)」から展開され、さらに「わたしの父の御心は(40節)」と繰り返し説明されていきます。御父の御心がここから溢れ出しています。

 聖書は、神のご栄光と罪人の救いについて記された誤りなき生ける神の言葉であります。つまり、聖書は、主なる神様の御心が開示されている書物に他なりません。その視点で申し上げれば、この部分は、聖書の中心ともいえる決定的な御言葉です。

特に具体的にそれが示されるのが、 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(40節)」これです。

 ここでは、先週確認しましたが、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない(36節)」、と主イエスが言われるように、信仰は、罪人が見て信じるような安っぽい代物ではないのに、どうして「子を見て信じる者」、という立場がありうるのだろうか、矛盾しているのではないか、と思うかもしれません。しかし、この矛盾ははっきりと解決されます。実は、この日本語訳の聖書では、同じように訳しているので分かりませんが、36節の「見る」という字とこの40節の「子を見て信じる者」の「見る」という字は区別されています。36節の「見る」の方は、ここでは肉の目で見る、そう言う意味で使われていますが、この40節の方の「見る」は、肉の目ではなく、信仰の目で見る、さらに言えば信仰の目でしか見ることが出来ない、そう言う意味で使われています。この40節の方の「見る」という字を使った決定的な御言葉がこの後に出て来ます。「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。(12:45)」、ここで繰り返される「見る」という字、これが、本日の御言葉で「子を見て信じる者」の方の「見る」という字と全く同じです。「わたしを遣わされた方を見る」これは「父なる神様を見る」ということであり、これが肉の目ではなく、信仰の目であることは明らかです。ですから、「子を見て信じる者」それは、しるしを見ても信じない肉の目ではなく、信仰の目である、ということで、つまり、この「子を見て信じる者」と言うのは、信仰の目でキリストを見る者、すなわち信仰者あります。

 さらにここで教えられたいのは、このヨハネ福音書が信仰について言う時の定型句なのです。実は、「わたしを信じる者は決して渇くことがない(35節)」とあります「わたしを信じる者」、ここに、この福音書が信仰を表現するときの大切な字が現れまして、それはギリシア語のエイス(εἰς)という前置詞です。以前、ローマ書講解、特にローマ書の頂点であると言われる8章を共に学んでいます時にエン(ἐν)という前置詞で信仰者とキリストとの結合が鮮やかに示されていました。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ローマ書8:1)」、この「キリスト・イエスに結ばれている」、という言葉が、ギリシア語で「エン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ)、となりまして、ギリシア語のエン(ἐν)という前置詞は、英語に置き換えるとinになりますので、ここは英語でin Christ Jesusとなります。それゆえに、もともとは、キリストの中に入ってしまう、そういう意味なのだ、と以前確認いたしました。そして、実はヨハネ福音書で使われるエイス(εἰς)という前置詞も英語ではinと訳されまして(或いはinto、unto)、もともとは、キリストの中に入ってしまう、そう言う意味なのです。あのローマ書の「エン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ)」のヨハネ福音書バージョンが、エイス(εἰς)という前置詞で作られ「、エイス・クリストン(εἰς Χρισὸν)」となるわけです。つまり、「わたしを信じる者は決して渇くことがない」とあります「わたしを信じる者」それは、つまり、キリストの中に入ってしまう者、身も心もキリストに委ねる信仰です。

しかし、エン(ἐν)という前置詞と、エイス(εἰς)という前置詞が、全く同一でないことも確かです。それは、移動する距離の違いだと申し上げてよろしいでしょう。実は、エン(ἐν)よりもエイス(εἰς)の方が離れている場所から中に入って行く、そう言うニュアンスです。つまりヨハネ福音書は、よりキリストから離れていた罪人が、キリストの中に入ってしまう、その救いの奇跡を、意識的に、より大胆に表現しているのです。キリストから、誰よりも遠く離れた罪人の中の罪人が、子を見て信じる者、とされる奇跡、そればかりか、彼らが、皆永遠の命を得る奇跡、最終的には、終わりの日に復活させる奇跡、ここまで大胆に謳われているこの御言葉が、聖書の頂点であり、父の御心なのです。

 五千人の給食の出来事は、この終わりの日まで続く罪人の救いの奇跡の前座に過ぎないのです。

 本日私たちは、父なる神様の御心を謳ったエゼキエル書の御言葉でこの礼拝に招かれました。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル書33:11)」、しかし、まだ不十分です。ここには、赦しはあっても、救いと永遠の命は宣言されていません。

この御父の御心を十字架の主イエスが「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」、と実現し、完成させたのです。今、全ての罪人に、最も救いから遠い罪人に、立ち帰りの福音が宣言されました。