2023年09月24日「わたしが命のパンである」

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わたしが命のパンである

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章30節~35節

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30節 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31節 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。
32節 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33節 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。
34節 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35節 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ヨハネによる福音書 6章30節~35節

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説教の要約「わたしが命のパンである」ヨハネ福音書6:30~35

先週から五千人の給食の出来事の意味を明らかにする主イエスの説教が記録されている御言葉に入りました。実は、本日の聖書個所と、次週与えられます聖書個所が、この主イエスの説教の中心部分となっていまして、非常に大切な真理が2週にわたって示されていきます。

 先週は、永遠の命に至る食べ物が、主イエスご自身である、ということが暗示されました。それが、本日の御言葉から、明らかにされていくわけです。

ここで、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。(33節)」、と言われた主イエスに対して群衆は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください(34節)」、と要求しました。主イエスは、永遠の命に至る霊的なパンを示しているのに、群衆は勘違いして、物質的なものに魅力を感じて、主イエスにそれを求めているわけです。

 しかし、大切なのは、主イエスが、そのように導いておられる、ということではないでしょうか。主イエスは、永遠の命を物質的なものを用いながら分かりやすく説明しているのです。

私たち人間は、水がなければ生きていけませんし、食物がなければ生きていけない。生きていきたいから、私たちは水と食物を求めるのです。真の人となられた主イエスは、この私たち人間の命に対する渇望をよくご存じでありました。ご自身が私たちと同じように飢え、そして渇いたからです。

 主イエスは、今でいうスピリチュアルな宗教家ではありませんでした。むしろスピリチュアルとは正反対の生き方をされました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。(ヘブライ書5:7、8)」、これが神の御子主イエスの地上での歩みであります。主イエスは、私たちと全く同じ弱い肉体をもって勤しみ、飢え、渇き、痛みを知り、涙を流して歩まれたのです。

 そして、キリスト教と言うのは、この世の飢えや渇きと無関係な救いを提示しているのではないのです。物質的に満ち足りた人が、精神的なものに興味を示して門を叩くところが教会ではないのです。むしろ、物質的にも、精神的にも欠乏し、疲れ果てた末にたどり着く場所が教会なのです。

 ですから、改めて、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」、ここには、群衆の欠乏が、実に見事に表現されています。この群衆の姿を、表面的な救いしか求められない愚かな姿だ、と簡単に片付けることが出来ましょうか。それは思想家の言うことであって信仰者の言うことではありません。

 実に、この窮乏が救われるべき罪人の本来の姿であり、それと無関係に永遠の命だけに興味を持つことなどありえないからです。むしろ、逆です。この世の物質的な欠乏をよく知っているのに、永遠の命に対する飢えを感じていないのが罪人であるからです。この罪人の姿をよくご存じで主イエスは、群衆を、その物質的なパンから永遠の命に至るパンへと導かれます。

「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(35節)」、繰り返し確認しましたように、「わたしが命のパンである」、これはギリシア語の本文では「わたしはある(Ἐγώ εἰμι・エゴーエイミー)」という表現に+「命のパン」で=「わたしが命のパンである」、というこのキリストの宣言が成り立っています。

 これも前々回確認しましたが、この後、「わたしは世の光である(8:12)」或いは、「わたしは復活であり、命である(11:25)」というキリストの宣言が同じ方法でなされています。

 この「わたしはある」、これほど聖書で威厳を持った言葉はなく、これは、すなわち、「わたしは神である」もっと聖書的に表現すれば「わたしはヤーウェである」それを宣言する機能を持っていました。

 ですから、ヤーウェである主イエスが、「命のパン」である、とここでは宣言されていて、これは、十字架で肉を裂かれた主イエスを前もって示すために語られた言葉であり、その詳しい内容は、次週以降の御言葉で教えられていきます。それは最も威厳を持った方の十字架なのです。

本日は、続く「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」、この御言葉に聞いて終わりたいと思います。

 忘れてはならないのは、昨日五千人の人々を満腹にされた主イエスがこれを語っておられる、ということです。主イエスは、食べ物がなく飢えている群衆を憐れんで、物質的なパンをお与えになりました。それと同じように、主イエスは、永遠の命と無関係に生きている群衆を憐れみ、命のパンを与えるために、これを語っておられるのです。この世のパンで満腹させた群衆を、今度は命のパンで満腹させる、これが主イエスの導きでありました。

 ですから、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」、これは、永遠の命に歩む者の姿で、具体的には、命のパンである十字架で裂かれた主イエスの肉を食べる者、すなわち主の晩餐に与る者の姿であります。

つまり、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」、これは、他ならぬわたしたちキリスト者に約束された御言葉であります。

 では、私たちは、永遠の命という信仰において、「決して飢えることがなく」「決して渇くことがない」、と言い切れるでしょうか。いいえ、現実は、飢えて、渇いて、酷い時は、ため息混じりの信仰生活になっていないでしょうか。

しかし、だからこそ、毎週礼拝に招かれているのです。だからこそ、世の終わりまで私たちは、聖餐式を続けて主の十字架の死を確認し、告げ知らせるのです。実に、「わたしのもとに来る者」と言うのは礼拝、とりわけ聖餐式に与る者であります。「決して飢えることがなく」「決して渇くことがない」、これは、「わたしのもとに来る者」だけになされた約束だからです。

この世に遣わされ、信仰は飢え渇き、疲れ、疑い迷う、だからこそ私たちは、主イエスの許に招かれなければ生きていけないのです。「わたしのもとに来る者」でなければ、たちまち信仰生活は枯渇し崩壊するのです。

 そうである以上、私たちは、今度は、救われたその立場で、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」、これを読み直さなければならないのではありませんか。「わたしが命のパンである」この永遠の命のパンである十字架の主イエスを「いつもわたしたちにください」という信仰の渇望が、今ありますでしょうか。永遠の命のパンを与えられるのが、当然になっていませんでしょうか。もしそうであれば、それは当時のユダヤの群衆のように、悔い改めの御言葉で自らの立場を固め、権利を主張するために用いる恥知らずとなりかねません(彼らは悔い改めの詩編78編を引用して更なるしるしを求めた(31節))。次週は聖餐式に与ります。神の御子が、私の罪のために十字架についてくださった、私たちはこの一週間、悔い改めて主の晩餐ための備えをすることが出来ますように願います。