2023年09月17日「永遠の命の糧を得るために勤しめ」

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永遠の命の糧を得るために勤しめ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章22節~29節

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30節 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31節 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。
32節 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33節 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。
34節 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35節 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ヨハネによる福音書 6章22節~29節

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説教の要約

「永遠の命の糧を得るために勤しめヨハネ福音書6:22~29

本日の段落から、五千人の給食の出来事が、この後59節までの長い箇所を使って主イエスの説教によって解明されていきます。本日私たちに与えられました箇所は、その説教への導入部分と言える御言葉です。

五千人の給食の出来事から一夜明けた時、群衆は主イエスを探してカファルナウムまでやってきて、そこでようやく主イエスを見つけました。その物質的満足を追求して群がってくる群衆に対して主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(26節)」、と鋭く指摘したうえで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。(27節)」、と言われました。以前確認しましたように、この「朽ちる食べ物」の「朽ちる」という字は、聖書的に非常に重要であり、滅びる、失われる、と訳される罪人を表現するために使われる述語です。ですから、「朽ちる食べ物」、それは、直接的には、群衆の腹を満たしたパンを指していますが、それ以上にここでは、地上的な豊かさ全体を指して「朽ちる食べ物」、と表現されているのでありましょう。

 この世の富、名声、地位、そのようなもので、失われないものは一つもないのです。勿論、主イエスは、「朽ちる食べ物」が不要である、などと言われているのではありません。そうでしたら、そもそも、五千人の腹を満たすパンなど用意しません。ここでは、「朽ちる食べ物のために」と言われていることが大切です。すなわち、「朽ちる食べ物」が目的となってはならない、と主イエスは言われているのです。「朽ちる食べ物」は、目的ではなく、手段に過ぎない。ですから、続けて、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、と主イエスは言われます。

 「永遠の命に至る食べ物のために」つまり私たちの目的は、「朽ちる食べ物」ではなくて、「永遠の命に至る食べ物」である、それがここでは言われているのです。

 では、「永遠の命に至る食べ物」とは一体何であるか、それが続く「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」、これです。ここで見逃してはならないのは、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われたのにも関わらず、「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と続いているところです。すなわち、「永遠の命に至る食べ物」と言うのは、主イエスが私たちに与えてくださるものであって、働いた報酬ではない、ということなのです。

 私たちの目的は、地上的な富や栄ではなく、永遠の命のために働くことです。しかし、その勤労によって永遠の命を掴み取るのではない、ということなのです。特に、この「あなたがたに与える食べ物」の「与える」という字は、この福音書の頂点にある神の愛を謳った御言葉で使われる極めて重要な言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」この「神は、その独り子をお与えになったほどに」と謳われています「与える」という字、これが本日の御言葉の「あなたがたに与える食べ物」の「与える」と全く同じ言葉です。私たち罪人は、ことごとく神の憐れみによるプレゼントに依存していて、その最たるものが、神の御子イエスキリストその方であります。ですから、「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」、この食べ物が何であるか、これは次週以降さらに詳しく学びますので、今日は結論だけ申し上げれば、それは、イエスキリスト、しかも主の晩餐のパンが示す十字架で裂かれたキリストの肉であります。「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、つまりこれは、言い換えれば「主イエスキリストのために働きなさい」、すなわち、十字架のイエスキリストを私の主として勤しむことであります。

 さて、この主イエスの説教の導入部分を聞いていた群衆が早くも口を挿みます。「そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか(28節)」、つまり群衆は、「永遠の命に至る食べ物のために働く」=「神の業を行う」、と勝手に理解して質問をしているのです。この思想は、当時のユダヤ社会におきまして、一般的な救いの法則であったようで、永遠の命を善き業の報酬程度に見積もっているわけです(マタイ19:16~30、マルコ10:17~22「金持ちの議員」の記事を参照)。

それに対して、主イエスが回答します。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。(29節)」群衆の「何をしたらよいでしょうか」という質問に、主イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること」、とだけ回答しました。行いではなくて、信仰である、ということです。そして、「それが神の業である」と結論づけられました。日本語訳の聖書ではよくわかりませんが、群衆の「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いかけの「神の業」の部分は複数形で、彼らは、「諸々の業」或いは「多くの行い」をすることを前提に質問を投げかけてきたわけです。しかし、主イエスが最後に、「それが神の業である」と言われた「神の業」の部分、これは単数形になっています。すなわち、神の業と言えるのは、ただ一つだけである、そしてそれは、「神がお遣わしになった者を信じること」すなわち、イエスキリストへの信仰それだけである、ということなのです。そして、それこそが、「永遠の命に至る食べ物のために働く」その信仰者の姿であります。

 このところ、敗戦後、日本キリスト改革派教会が産声をあげた日から、愚直に「神の業」に仕えてこられた信仰者が次々に天の故郷へと召されています。先週の主の日の前日に、幼い日から、父親のように、面倒を見てくださった東京教会の長老さんが天に召されました。また、ご存知のように、私たちの教会の客員で、他教派の大所帯の教会の役員として生涯を神と教会にささげてこられた愛する姉妹も、今最後の歩みを続けています。歳を重ねますと、やはり身体のあちこちが疲れてきて、弱々しくなっていくものです。しかし、聖書は彼らの若かりし日の姿ではなく、その年を重ねて、弱くなった最後の姿をよく覚えておきなさい、と言うのです。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(ヘブライ書13:7)」、この通りです。しっかり見た「彼らの生涯の終わり」はどんな姿であったでしょうか。恐らくこの時代は、殉教した者もあったでしょうが多くの場合、歩くことさえできなくなるまで弱った姿ではなかったでしょうか。時には弱音を吐き、涙を流す、そう言う老いた姿ではなかったでしょうか。しかし、「その信仰を見倣いなさい」なのです。そこには、朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために勤しんできたキリスト者の信仰が横たわっている。生涯で最も弱い姿が死の瞬間であるゆえに、その信仰が最も輝くのではありませんか!もはや肉体には何の力も残っていない死の床にあって、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」この御言葉が証言されるのではありませんか!結局、信仰とは終始キリストの恵みの賜物以外の何物でもないのです。死の瞬間の最も弱い姿にこそ、信仰の何であるかが鮮やかに証言されるのであります。