2023年09月10日「わたしはある」

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聖句のアイコン聖書の言葉

16節 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
17節 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
18節 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
19節 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
20節 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
21節 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
ヨハネによる福音書 6章16節~21節

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説教の要約

「わたしはある」ヨハネ福音書6:16~21

本日の御言葉は、五千人の給食の後、一人で山に退かれた主イエスに並行した弟子たちの行動から描かれていきます。彼らは「湖畔へ下りて行き、そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした(16、17節)」のですが、「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた(18節)」わけです。

 ガリラヤ湖は、非常に特殊な地形になっていまして、海抜マイナス200mの低地に湖面があり、東西を高い山に挟まれる形になっていますため、しばしば突風が湖に吹き降ろしてきます。

 主イエスの弟子であるペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、彼らはガリラヤ湖を漁場にしていた本職の漁師でした。しかし、その知り尽くした場所でも、どうにもならないことは起こるのです。

 これは、私たち自身に置き換えてみるとよくわかるのではないでしょうか。慣れ親しんだ場所で、いつもと変わらない信仰の歩みを続けているその現実の中で、「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」という事態は突然襲ってくるからです。周りの状況と変化に支配されてしまう、それが私たち人間の弱さであります。しかも、この舟は、まだ目的地の対岸まで距離がありました。「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ(19節)」、と記されていて、一スタディオンは185mですので、これは5キロ前後の距離になります。ガリラヤ湖は、楕円型の湖で、湖の幅は南北におよそ21キロメートル、東西でおよそ13キロメートルあります。ですから、一番短いコースでありましても、5キロ漕いだところで、その半分にも到達しない、しかも突風と暗闇の中で向こう岸など見えもしない、そう言う厳しい状況であります。

しかし、まさにその時、「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られる(19節)」ことがここで記録されているのです。ところが、あろうことか、それを見た「彼らは恐れた」と御言葉は言います。絶体絶命の時に救い主が登場した、しかし、それを見た「彼らは恐れた」のです。しかも、マタイやマルコの並行箇所では、弟子たちが「幽霊だ」、と叫んだことまで記録されています。これも私たちに思い当たるところがないでしょうか。

私たちは、週ごとに御言葉に聞き、悔い改めと喜びをもってそれぞれの場所に遣わされます。しかし、その場所で嵐のような事態に巻き込まれた時、肝心な御言葉は機能していますでしょうか。

御言葉が、そして共におられるはずの主イエスが、まるで幽霊のように実体のないものに変わっていないでしょうか。主イエスは、私たちが絶体絶命の時こそ御言葉によって、その嵐の海のような現実に現れてくださる。しかし、私たちにはそれが幽霊のような頼りないもの、実体のないもの、何の助けにもならないものに見えていないでしょうか。ここでは、それが問われております。

 しかし、それ以上に、弟子たちが恐れおののいているその混乱の只中で語られた主イエスの言葉に注目したいのです。「イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。(20節)」

結論からまず申し上げれば、この節が、本日の御言葉の中心であって、この記事におけるヨハネ福音書の強調点です。その中でも、ここで、主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」と言われましたこの「わたしだ」この言葉が、最も大切です。これは、ギリシア語の本文を厳密に、さらにより聖書的に訳しますと「わたしはある」、となります。これはギリシア語で、「エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」と書きまして、聖書全体でこれ以上に威厳を持った言葉は見当たりません。これは、「わたしこそはヤーウェである」、という意味を持つからです。

 実は、聖書でこの表現が最初に出てくるのは、本日の招きの詞で与えられた御言葉で、主なる神様がモーセにご自身を紹介する場面です(出エジプト3:14、15)。そして、実にヨハネ福音書は、主イエスが、「わたしはある」、というお方であることの証言集ともいえるくらい、この言葉が多用されていまして、実はこれを基軸に「わたしは~である」という言い方がこれからヨハネ福音書で幾度も見られるのです。例えば、「わたしが命のパンである(6:35)」、「わたしは世の光である(8:12)」、「わたしは復活であり、命である(11:25)」、これらは、いずれも「わたしはある(エゴーエイミー・Ἐγώ εἰμι)」に主イエスの属性がプラスされる形で成り立つ表現なのです(例:わたしはある+命のパン)。ですから、本日の御言葉で、「わたしだ」すなわち、「わたしはある(エゴーエイミー・Ἐγώ εἰμι)」、と宣言される時、これは、これからこのヨハネ福音書で示されるイエスキリストのご性質を予め準備するものとして優れて機能しているのです。逆に見れば、「わたしはある」そのお方は、「わたしは世の光」であり、しかも「わたしは復活であり、命である」だから、「恐れることはない」のであります。

 さて、この出来事の結果が最後に示されてこの記録は幕を閉じます。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(21節)」、このように、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」、と記されてこの記録は終わります。この「間もなく」という字は、「たちまち」とも訳せます言葉でありまして、主イエスが舟に乗り込んだ途端に「舟は目指す地に着いた」ということがここで示されているわけです。しかし、途中で確認しましたように、この舟は、ガリラヤ湖の最も短いコースを通ったとしてもまだ半分にも達していない状況でした。しかも、マタイとマルコの記事では、主イエスが舟に乗った後に、ガリラヤ湖の突風がおさまったことが記録されていますが、ヨハネ福音書は、それまで省略しています。ヨハネ福音書は、そのような周りの状況に全く興味を示さず、主イエスを迎い入れた弟子たちの舟がたちまち目的地に着いた、ということだけ伝えたいようなのです。主イエスをお迎えさえすれば、周りの状況がどうであれ、それはたいした問題ではない。嵐であろうと、逆に凪であろうと、それはもうどうでもいい話である。ただ主イエスさえ私たちの舟に迎い入れれば、私たちの目的地までの航路は確実である、それがヨハネ福音書の視点です。

 私たちは、今までも多くの困難に出会い、時には傷だらけになって歩んでまいりました。恐らくこれからもそうでしょう。海という不安と恐怖に加えて、暗闇が周りを支配している、それが私たちの遣わされているこの世であるからです。

いいえ、実に今が、「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」その最中である、或いは生涯の終わりに「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」という信仰の現実が与えられる方もおられましょう。

 しかし、その時こそ「わたしはある」この主イエスがそこにおられ、そうである以上、信仰者に対して、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」、この約束が違うことはあり得ないのです。

 実に、人生の最たる苦難の時に、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」、と約束されているのが私たちキリスト者であります。

 私たちは、この後讃美歌298番「やすかれ、わがこころよ」、で主なる神様を賛美いたします。

 これは、どうにもならない人生の嵐と暗闇の時のキリスト者に歌い継がれてきた讃美歌です。

 どのような状況にありましても、「のぞみの岸はちかし」、と謳いきることが私たちには許されています。「やすかれ」と言われる方が、「わたしはある」、と宣言してくださる方だからです。