2023年09月02日「五千人の給食(後)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2節 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3節 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4節 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5節 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6節 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7節 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8節 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9節「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10節 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11節 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12節 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13節 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14節 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15節 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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説教の要約「五千人の給食(後)」ヨハネ福音書6:1~15

先週から、ヨハネ福音書6章の「五千人の給食」の記事に入りまして、まず2回に分けて1節から15節までの、この五千人の給食の出来事が直接描かれている御言葉に教えられています。先週は、この出来事が起こるまでの経緯と聖書的な背景を学びました。

今週はいよいよこの出来事が実現する場面が、「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。(11節)」、と記されています。他の福音書では、人々にこれらの食物を配分するために弟子たちが用いられていたことが記録されていて、ここでは弟子たちが、配餐係のように機能していたわけですが、ヨハネ福音書はそれを省略しています。

 ヨハネ福音書は、この前代未聞の五千人の給食の出来事を、他のどの福音書よりも簡潔に記し、一つのことに視点を集中させています。それは「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」、この主イエスのお姿で、実は、ここにやがて聖餐式のために固定化されていく用語が繰り返されています。それは、「パンを取り」と「感謝の祈りを唱えて」、これらの言葉です。この後、他の福音書に見られる具体的な主の晩餐の場面は、ヨハネ福音書には記録されていないのですが、それ以上に、この6章全体をもって、ヨハネ福音書は、さらに深く聖餐式の何たるかを教えていくわけなのです。

 ですから、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」、この短い御言葉に、この福音書の示す聖餐式の要素が凝縮されていて、福音書記者はそれに目を向けさせて、具体的に主の晩餐の真理が説明されるこの後の主イエスの説教(22~71節)の伏線にしているのです。

それゆえに、すぐに場面は、食事の後に切り替わります。「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(12、13節)」、このパン屑を集める記録は、どの福音書にも記録されていまして、いずれもその強調点は、「十二の籠がいっぱいになった」、この部分です。伝統的に、この「十二の籠」の12という数字は、イスラエルの12部族を象徴するものであって、ここで、「十二の籠がいっぱいになった」とありますのは、主イエスによって救われる新しいイスラエルであるキリストの民が形成されることの予告になっている、そう言う理解です。恐らくその通りでありましょう。しかし、ここでは、ヨハネ福音書だけ「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」、という主イエスの言葉が記録されているのが重要で、それを見逃してはなりません。実は、この「少しも無駄にならないように」の「無駄になる」という字は、聖書的にとても大切な意味を持った言葉で、実は、本日のヨハネ福音書の御言葉の直後にこの字が使われているのです。それは、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。(39節)」、この「一人も失わないで」と訳されています「失わない」という字、これが、本日の箇所の方では、「無駄になる」と訳されている同じ言葉です。ですから、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」、これは、下に落ちている残り物のパン屑が、救われなければならない罪人の姿を象徴していて「一人も失わなうわけにはいかない」という救い主イエス様の強いご意志の表明になっているわけなのです(通常「失われた者シリーズ」と呼ばれて有名なルカ福音書15章ではこの字が8回繰り返されます)。

 さて、この五千人の給食の出来事を目撃し、その恩恵に与った人々の行動が描かれています。

「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(14、15節)」

五千人を一度に養う力は、そのまま莫大な富として人々の目に映ったのでしょう。昔も今も富と軍事力は一体的で、この男を王にすれば、強大な軍事国家が形成されるに違いない、と人々は確信したのです。しかし、主イエスは、そのようなこの世的な王として、地上に来られたのではありません。そうではなくて、人々を罪から解放し、永遠の命を与えるために来られた真の王でした。そして、それが、具体的に22節の段落から示されていくわけなのです。特に少し先回りをして26節以下を見ますと、人々の勘違いが指摘され、五千人の給食の意味が説明されていきます。

 「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。(26、27節)」、人々が、主イエスを王にするために連れて行こうとしたのは、「パンを食べて満腹したから」であって、それは全て朽ちていく地上のことに過ぎない、とここで主イエスは言われているわけです。彼らにとって、目に見えるものが全てでしたが、五千人の給食によって主イエスが示したのは、目に見えない「永遠の命に至る食べ物」でありました。ここで、「朽ちる食べ物」と訳されています「朽ちる」という字は、先ほど確認しました12節の「少しも無駄にならないように」、の「無駄になる」という字と全く同じです。そしてこれはこの後39節で「一人も失わないで」と訳されています「失わない」と同じ字であります。

 主イエスは、罪人が「一人も失わないで」救われるために地上に来られ、十字架で死んでくださったのです。ところが、この十字架の贖いと正反対のことに人々は固執しているのです。「朽ちる食べ物」、言い換えれば「滅びに至る食物」のために人々は躍起になっている。「草むらに落ちたパン屑さえも無駄にならないように」、これは、今もそして世の終わりまで、この広い世界の暗闇にまで救いの手を差し伸べておられるイエス様の姿です。しかし、パン屑に象徴される罪人の方が、滅びを選んでその手から零れていく、これが私たちの見ているこの世の風景です。だからこそ私たちに委ねられている福音宣教の務めは重要です。主なる神様は、罪人が滅びるのを喜ばれないからです。

 本日、私たちは、この御言葉で礼拝に招かれました。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル書33:11)」、この主なる神様の御心が、そのまま、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」、この主イエスの言葉で復唱されています。

 私たちは、この後、聖餐式に与ります。このパンと盃を受ける時、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、この御言葉が私たちの中で立ち上がってまいります。そして、その通りに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」、とここから福音宣教のために遣わされたいと願います。