2023年08月27日「五千人の給食(前)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2節 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3節 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4節 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5節 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6節 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7節 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8節 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9節「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10節 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11節 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12節 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13節 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14節 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15節 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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説教の要約

「五千人の給食(前)」ヨハネ福音書6:1~15

前回までで、5章全体が終わりまして、丁度本日から6章に入ってまいります。

最初に大まかにこの6章の全体的な構造を確認しておきます。

 まず6:1節~15節までで、5千人の給食の出来事が記され、その後16節~21節まででは、時系列的に、その直後にあった主イエス様の湖の上を歩かれた出来事が記録されています。

 そのうえで、22節以下では、長い聖書個所を使って、場所と内容を変えながら五千人の給食の出来事が行われたその意味が解き明かされていく、とこのような文脈構造になっています。

最初に、この五千人の給食の実際の出来事の記事を今週と来週の二回に分けて学んでいきたいと願っています。本日はその前編として9節までの御言葉を中心に、この出来事が行われるまでの経緯を教えられたいと思います。

この記事を読み始めるためにとても大切なことは、「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。(3、4節)」、ここに、この出来事の聖書的背景が記されていることを見抜くことです。実は、この五千人の給食の出来事の前後には、モーセについて記されていて(5:45~47、6:31~33)明らかに、出エジプトの出来事が、五千人の給食の背景にあることが分かります。また、特にここでは、「過越祭が近づいていた」と記録されていまして、この過越祭も、あの出エジプトに起源を持ち、この過ぎ越しの犠牲の子羊は、十字架の主イエスを指し示す予型でありまして、また、この過ぎ越しが、新しい契約の下では、聖餐式へと姿を変えていくわけなのです。そして、主イエスが十字架につかれたのも、過越祭の時であります。つまり、この5千人の給食は、そのまま主イエスの十字架に直結するとても重要な出来事であったのです。

この奇跡が可能か不可能かなどの議論がいつの時代も絶えませんが、聖書はそのようなことには一切興味を示していません。愚かな議論です。そもそも、この程度の奇跡が起こり得ないのなら、天地万物の創造も、死者の復活も不可能でありましょう。聖書の視点で重要なのは、この出来事の聖書的背景とこの出来事が指し示す十字架によって実現した新しい契約なのです。

事の始まりは、主イエスの奇跡を目撃した多くの群衆が、主イエスの後を追いかけ群がってきたことです(1、2節)。それを見た主イエスが、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」、と切り出されてこの出来事が進行していきます。その背後のナレーションで、「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」、と追加されています。これがとても大切です。主イエスのご計画ははっきりしていて、それが、この後五千人の給食として実現するわけです。しかし、主イエスは、民を支配し、何事も思い通りに進まなければ納得しない独裁者のように、計画通りに次々と指示を出すのではないのです。 実にこれが私たちの神様のご性質ではないでしょうか。天地万物を創られた主なる神は、私たち人類をロボットのようには創造されませんでした。むしろ神にかたどり、意志を持った自由な生き物として私たちを創ってくださったのです(創世記1:27~28参照)。ですから、実はフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」、と問われた主イエスによっても、その主なる神のお姿が示唆されているわけなのです。主イエスのご計画は、はっきりしていて、それは必ず実現します。しかし、そのために主イエスは欠けのある私たち信仰者を用いるのです。

ですから、逆に言えば、私たちの足りない働きを通して、主イエスの御業は実現していくのです。これは、失敗だらけの奉仕を繰り返す私たちにとって何よりの慰めでありましょう。

さて、フィリポは回答します。「フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。(7節)」、ここで、「二百デナリオン」という金額が出て来ます。1デナリオンが、当時の労働者一日分の収入でありました。ですから、「二百デナリオン」と言うのは、200日分の賃金であり、莫大な金額になります。つまり、ここでフィリポは、金額云々ではなくて、それは不可能である、ということを言いたいわけで、これは、簡潔に言い換えれば、「先生出来ません、お手上げです。」という意味です。

 そのお手上げ状態のフィリポをしり目に、ここではさらにアンデレが入ってきます。

「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。(8、9節)」、この記事は全ての福音書で記録されていまして、「パン五つと魚二匹」があったことまでは、他の福音書でも記されています。しかし、そのパンが「大麦のパン」であったことと、その持ち主が、「少年」であったことまで詳しく記録しているのは、このヨハネ福音書だけです。

 「大麦のパン」と言うのは、貧しい人々のための安いパンを指します。また、その持ち主が「少年」であったことからも、その貧しさが伝わってきます。つまり、ヨハネ福音書は、他のどの福音書よりも、「パン五つと魚二匹」が、取るに足らないものであったことを強調しているのです。そして、アンデレのその「パン五つと魚二匹」に対する評価も、「何の役にも立たない」というものでした。

 つまり、弟子たちは、完全にお手上げであった。彼らの理解では、不可能である、という現実から五千人の給食は起こったのです。誰が見ても可能性のないところに、主イエスの御業は実現する、それがこのヨハネ福音書の大切な視点です。

 或いは、私たちも、多くの場合、この弟子たちと同じ姿で主イエスに仕えていないでしょうか。神の可能性ではなくて、人間の可能性でこの世を眺めて、信仰者面していないでしょうか。

 例えば、大きく経済的に豊かな群れが、多くの可能性を持った教会である、と勝手に思い込んでいないでしょうか。それは非聖書的であり不信仰です。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ書11:1)」、と御言葉がはっきり謳いますように、信仰とは、不可能な現実から、希望を抱き、神の御業に信頼し、それに人生をかけることです。そして、神の御業が実現するシチュエーションとは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」、これです。そこにある物も、その持ち主も取るに足らない、これ以上にないくらいに貧しい。しかし、そこにこそ神の御業が実現するのです。実に、神の御業は、最も起こりそうにないところにこそ実現するのです。

 その究極的な御業が死者の復活です。死を前にして、この世的にはそこには何の希望もありません。多くの富と名誉を積み重ねてきても、それらは死を前に、何の慰めにもなりません。しかし、何の希望もないところに信仰があれば、そこに真の希望が生まれるのです。キリスト者にとって死の床は、天の栄光への入り口に他なりません(ハイデルベルク信仰問答書問42参照)。