2023年08月13日「律法の機能とキリスト」

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律法の機能とキリスト

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章41節~47節

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41節 わたしは、人からの誉れは受けない。
42節 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
43節 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
44節 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
45節 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
46節 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
47節 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。
ヨハネによる福音書 5章41節~47節

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説教の要約「律法の機能とキリスト」ヨハネ福音書5章31~40

本日の御言葉は、主イエスの安息日のいやしの御業に異議を唱えて迫害を始めたユダヤの宗教的指導者たちに対する説教の最終回で、ここでは、その彼らの正体が暴かれながら、律法の機能とキリストとの関係が記されていきます。特に、ユダヤ人たちの姿が、「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。(42節)」さらに、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。(44節)」と非常に厳しく指摘されます。

 つまり、彼らはこの世的であり、信仰的ではないということです。「互いに相手からの誉れは受ける」、とありますように、この世における称賛、身分、立場、それがユダヤ人たちの目当てであって、これらの共通点は、この世的栄光である、ということです。彼らは確かに宗教的熱心をもって、神の民を自負していました。ところが、それが、律法をどれだけ守っているか、という他者との競争になり、それによって神との関係が保たれているかのような錯覚を起こしていったのです。その結果、人間からの栄誉を受け入れ合うこと、これが彼らの信仰の枠組みとなって行ったのです。

 そのユダヤ人たちに、主イエスはその律法本来の機能を示されていきます。

「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。(45節)」、ここで、訴える、と訳されています字は、ギリシア語の本文では未来形です。ですから、これは、主イエスが、最後の審判の裁きについて言われていると考えられます。主イエスを迫害するユダヤ人たちを訴えるのは、主イエスではなく、モーセである、そう言う意味です。モーセと言うのは、律法の言い換えと言ってもよろしいでしょう。そのモーセは、「あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」と言われています。この「頼りにしている」、という字は、通常はあの「希望」という字でありまして、「あなたたちが希望を抱いているモーセなのだ」、と訳した方が分かりやすいかもしれません。ユダヤ人たちの希望は、何か。それは、モーセの律法である。

 しかし、その希望であるはずのその律法が、実は最後の審判であなたたちを裁くのだよ、という驚くべき事実を主イエスはここで言われているのです。主イエスは、この世を裁くために来られたからではないからです(3:16、17参照)。

その上で大切なのは、「モーセは、わたしについて書いているからである(46節)」と主イエスが言われているところです。モーセ、すなわち律法は、イエスキリストについて書いている、これはどういう意味でしょうか。それは、モーセの律法は、必然的にイエスキリストに導くために機能している、ということです。このことについては、使徒パウロが最も分かりやすく記しています。

 「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(ガラテヤ3:24)」、つまり律法は、全ての人が救われる希望のない罪人であり、自力では救われないことを示すものであり、それゆえに、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」として機能している、ということです。ユダヤ人たちは、律法の中に命があると研究していたのですが(39節)、律法は、命ではなく、命であるキリストに導く役割なのです。

 そして、最終的に、「しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。(47節)」、と結論づけられます。ここで、主イエスが、「しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば」、と言われていることに注目したいのです。実は、律法は、研究するものではなくて、信じるものである、ということなのです。これが非常に大切で、これは、シナイ山でモーセが律法を授かって以来かつてなかった理解であり、誰一人見いだせなかった真理であるはずです。主イエスが初めて、律法とは信じるものだ、と教えられたのです。ユダヤ人たちは、律法を研究し、それだけでは物足りずに敷衍して、そこから莫大な教理の体系を築いてきました。しかし、それは本来の律法の目的とは違う、ということなのです。そうではなくて、律法は、信じるためにある、つまり律法によって自らの罪に砕かれ、悔い改める、その結果、主イエスの許に導かれ信仰が与えられる、これが、パウロが言いました「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」としての律法の機能なのです。つまり、ここで、「しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」、と主イエスが初めて律法に主イエスへの信仰へと導く機能があることを教えられたのです。これは十字架の主イエスだけが知っていたことで、他の誰も言えるはずがないことであったのです。律法を守ることが出来ない私たちのために、主イエスは地上のご生涯で完全に律法を守り、そればかりか、その私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださった。これによって、律法は主イエスを信じるための道しるべに変わったのです。これが律法の機能とキリストとの関係です。この大きな変化をパウロが、コリントの教会に分かりやすく語っています。

「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリント3:6・3:14~17)」

 ここでは、律法に永遠の命があると考えて研究している呪われたユダヤ人の姿と、律法がキリストへの道であるという真理に立つキリスト者の自由とが対照的に謳われています。

 そして、旧約聖書と新約聖書は、このキリストにある自由である十字架で実現した恵みの契約で貫かれているのです(エレミヤ書31:31~32参照)。「モーセは、わたしについて書いているからである」、と主イエスが言われます時、この恵みの契約がその根拠になっているのです。

 本日は、この律法の機能とキリストとの関係を御言葉から教えられました。特に、その具体的な真理の解釈に幾度もパウロから引用して証拠聖句にしたことを覚えておきたいのです。パウロは、もともとファリサイ派の律法の教師であり、エリート中のエリートでありました。「律法の義については非のうちどころのない者でした(フィリピ3:6)」、と自らの言葉で振り返ることが出来るほどに、それは徹底されていました。しかし、そのパウロだからこそ、キリストに見いだされ、悔い改めて律法から解放された喜びをよく知っていたのです。私たちの足りないのは、この喜びではないでしょうか。主イエスにおいて湧き上がるような喜びを感じてないとすれば、私たちが律法から解放されて罪赦され、自由に生かされている自覚がないからです。