2023年08月06日「誰が主イエスを証言するのか‐Ⅱ」
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誰が主イエスを証言するのか‐Ⅱ
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 5章31節~40節
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聖書の言葉
31節 もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
32節 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
33節 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
34節 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
35節 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
36節 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
37節 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
38節 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
39節 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
40節 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
ヨハネによる福音書 5章31節~40節
メッセージ
説教の要点「誰が主イエスを証言するのか‐Ⅱ」ヨハネ福音書5章31~40
先週から二週に分けてこの御言葉から共に教えられています。この箇所は聖書解釈の基準が示されていまして、非常に大切であるからです。本日はいよいよその中心部分に踏み込んでいきます。
それが、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(39節)」、この主イエスの言葉です。
主イエスもここで、ユダヤ人たちが、聖書を研究していることは、認めています。しかし、いくら聖書を研究しても、永遠の命と無関係であれば、それは全くむなしい、ということなのです。
キリストそのものである永遠の命と無関係に御言葉を蓄えてもそれは無意味であり、それは思想にはなり得ますが、神の言葉としては機能しないのです。神の言葉である聖書は、思想ではなくて、復活の主イエスキリストそのものだからです。
さらに、ここでは、聖書解釈の基準が導き出されています。それが、ここまで目指してきた結論、「聖書はわたしについて証しをするものだ。」、これです。私たちは、先週、今週と2週にわたって「誰が主イエスを証言するのか」、という説教題を与えられてきました。その解答が、聖書なのです。
聖書は、イエスキリストを証するものであり、そして、聖書だけが、イエスキリストを証することが出来るのです。この主イエスの時代は、勿論、まだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば、旧約聖書だけでした。そして、旧約聖書の中に、具体的にはイエスキリストは登場いたしません。しかし、その内容の全てが来るべきメシアである主イエスを指し示すものであり、さらに申し上げれば、旧約聖書のその行間に主イエスキリストがおられるのです。
これは、ルカ福音書では、主イエスが復活されたのにも関わらず、エマオへ退いていく不信仰な弟子たちに語られた内容です。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカ24:25~27)」、ここでも、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」とありまして、これは旧約聖書全体のことです。つまり、聖書全体にわたり、イエスキリストついて書かれていることを説明する、これがキリスト証言の方法なのです。
私たち日本キリスト改革派教会の40周年宣言の「聖書論」では、このキリスト証言が次のように告白されています。「旧約聖書と新約聖書の双方において、永遠の命が、神と人との間の唯一の仲保者、真の神にして真の人なるイエス・キリストによって、人類に提供されている」、ここに、旧新両約聖書がイエスキリストによって統一されていると同時に、それによって永遠の命が提供されていることが謳われています。このイエスキリストによる聖書全体の統一性と、永遠の命、これが本日の御言葉の中心的真理そのものであり、これが私たちキリスト者の聖書信仰です。
この健全な聖書信仰に立つ時、次の主イエスの言葉がとてもよくわかります。「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(40節)」、永遠の命は、キリストの許にだけあり、キリストと無関係に永遠の命は存在すらしないのです。ですから、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」これほど滑稽な姿はないわけです。
ユダヤ人たちも、永遠の命がいらないわけではありません。欲しいのです。だから一生懸命聖書を研究しているわけです。しかし、ユダヤ人たちは、神の言葉、特にその中の律法を研究し、そして、それを遵守することが、永遠の命の道である、と理解していました(ローマ書10:2~4参照)。しかし、実はそれが根本的な間違いであったのです。特にこの時代ユダヤの宗教的指導者たちは、律法遵守を民に強制し、それによってユダヤの民を束縛し、支配していました。神の言葉を、民を支配するために用いていたのです。ところが、もともと、律法と言うのは、民を束縛するものではなくて、民を束縛から解放するものであったはずです。律法が与えられたのはいつでしょうか。出エジプトの直後です。エジプトの奴隷という400年のくびきから解放された象徴が律法であり、律法は民を束縛するためでなく、神の民が神と共に生きるために与えられた神の言葉であったのです。
この律法の本質をユダヤの宗教的指導者たちは、ひっくり返して、再び民を束縛する、つまりエジプトの奴隷状態に逆戻りさせるために用いたのです(ガラテヤ4:9参照)。
パウロは、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために(ローマ10:4)」と謳います。この目標という字は、終わりとも完成とも訳せる言葉で、すなわち、キリストの十字架と復活によって、律法は実現し、終わったということです。そうである以上、キリストを信じる全ての者が義とされる、つまり、無罪放免、自由の身とされる、ということなのです。神の言葉は、私たちに自由を与える十字架のイエスキリストの言葉である、そう申し上げてもよろしいでしょう。
では、その場合、私たちは、何もしなくてもいいのでしょうか。確かに、十字架と復活の主イエスによって、救いは確定しています。聖書解釈の原則も私たち知っています。
繰り返し確認しますが、「聖書はわたしについて証しをするものだ」、これです。
しかし、もしも、「聖書はわたしについて証しをするものだ。」、と主イエスに言われて、「はいそうですね、めでたし、めでたし」、で終わってしまうのなら、それは真理であっても、ただの思想に過ぎないのではありませんか。思想で終わってしまうのなら、それはキリスト教ではありません。
ですから、信仰者である以上、御言葉が語られたら、必ず、信仰の応答が、信仰のアクションがあるはずで、今度は、私たちが、主イエスを証するために、招かれているのではありませんか。
聖書は、完結し、これ以上、書き足すことは許されません。しかし、その御言葉に生きる私たちが、今度は主なる神の作品としてこの世の歴史に刻まれていく、この私たちが、主イエスの書簡とされていく、それが全てのキリスト者に求められているのではありませんか。勿論、私たちは、汚れていて、不完全で、ポンコツです。しかし、その弱く貧しい私たちを、主イエスは、用いてくださっている。どうしてでしょうか。それは、悔い改めたその私たちが、十字架と復活の主イエスを証するためです。
何の取り柄もない私たちに、「あなたは、わたしについて証しをするものだ。」と遣わしてくださるのが、私たちの主イエスであります。私たちの役割は、十字架と復活の主イエスを証して、終末の時に再臨される主イエスの道を備えることであります。そのようにして、主イエスのお役に立ちたいと願うのです。
「聖書はわたしについて証しをするものだ。」、この真理に立つ私どもが、 今、「あなたは、わたしについて証しをするものだ」と遣わされるのです。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」、私たちの生涯の終わりに、私たちもそのように主イエスに覚えていただきたいと願うのです。