2023年07月30日「誰が主イエスを証言するのか‐Ⅰ」

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誰が主イエスを証言するのか‐Ⅰ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章31節~40節

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31節 もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
32節 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
33節 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
34節 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
35節 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
36節 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
37節 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
38節 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
39節 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
40節 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
ヨハネによる福音書 5章31節~40節

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説教の要約「誰が主イエスを証言するのか‐Ⅰ」ヨハネ福音書5章31~40

先週までで、天の父なる神と主イエスとの一体性が示されましたが、本日の御言葉からは、その父なる神と一体である主イエスが、どのように証言されているか、或いは、それを証言するのは、誰であるか、ということが主題になって展開していきます。特に、この31~40節までの御言葉では、それに関連して聖書解釈の基準が示されていまして非常に重要です。

結論を先に申し上げれば、39節後半の「聖書はわたしについて証しをするものだ」、この主イエスの証言、これが、聖書解釈の基準でありまして、この箇所の結論、と申し上げてよろしいでしょう。この結論に向けて、大切な真理が続きますので、この御言葉も今週と来週の2回に分けて丁寧に学びたいと願っています。

 まず、ここで、「わたしについて証しをなさる方は別におられる(32節)」、と主イエスを証言する第三者の存在が示唆されます。それは、37節で「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」、とこのように記されていますように、主イエスを証言する第三者とは、父なる神様であります。

 しかし、主イエスは、この正解を示される前に、彼らの前に、洗礼者ヨハネを差し出します。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。(33節)」、むしろ、主イエスを証言する第三者として、最も有効であったのがこの洗礼者ヨハネであったのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネなら、ユダヤの宗教的指導者もよく知っていたからです。それどころか、ここで、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが」、とありますように、彼らが、積極的に洗礼者ヨハネを調査していたことが、この福音書の最初に記録されています。

「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。(1:19、20)」、このように、ユダヤの宗教的指導者たちは、洗礼者ヨハネが、或いはメシアなのではないか、という期待まで抱いて使いをよこしました。しかし、ヨハネはそれを真っ向から否定し、開口一番「わたしはメシアではない」と彼らの期待をぶち壊し、むしろ、ユダヤの宗教的指導者たちの期待に反して、ナザレのイエスを証言したのです(1:6~8、23~34参照)。ですからこの洗礼者ヨハネこそ、イエスキリストの証言者としてここに立たせるべきでありました。第三者の証言を求めるユダヤの宗教的指導者たちに対してダメージを与えるとともに、ただならぬ説得力があったでしょう。いやしくも彼らがメシアだと期待した男が、ナザレのイエスの証言者として立つわけですから。

 しかし、面白いことに、主イエスは、わざわざここまで言った後に、そのヨハネの証言を退けます。

「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。(36節)」、何度か申し上げてきましたが、このヨハネ福音書は、主イエスの御業と主イエスの言葉を一体的に描いています。主イエスが、この福音書では「しるし」と呼ばれる不思議な御業を行った後、続いて、その御業の意味を言葉によって解き明かしていく、そう言う構造になっているからです。

そして、実は、この両者の関係が、主なる神の天地万物の創造の御業に遡る根本的な神の言葉と御業の関係なのです。

 本日招きの詞で与えられた創世記の最初の記事です。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:1~3)」

 この3節の「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」、この部分です。ここでは、神の言葉と、神の御業が一体になっています。神が、「光あれ。」と言われたから、「光があった」のです。

 ですから、不思議な御業を見て信じる「しるし信仰」の類は、「光があった」、この結果だけ注目して感動しているだけあって、その作者に目を向けないのと同じなのです。

 まことの信仰は、その逆であります。神が、「光あれ。」と言われたのなら、必ず光はある、たとえ今は暗くても必ず光はある。いいえ、そこですでに「光があった」と過去形で言い切る。これが信仰告白ではありませんか。洗礼者ヨハネは、この信仰に立って、まだ見ぬキリストの道を備え、キリスト証言に命をかけました。

 しかし、彼は、光ではなかった(1:8参照)、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。(35節)」、とこのように、何時かは消えるともし火のように、精一杯輝きを放って主イエスキリストの証を続けたわけです。しかし、やはり、それは不完全であり、ともし火は、光を完全に証することはできないのです。

ですから「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」、ここに、洗礼者ヨハネの愚直な信仰と、ユダヤの宗教的指導者たちの不信仰が見事に示されているのであります。ヨハネは、自らの役割の中で、ともし火として主イエスを証言して、やがて消えていった。しかし、ユダヤの宗教的指導者たちは、この洗礼者ヨハネの目的とは無関係にはしゃいでいた、ということなのです。つまり彼らは、「その光」を悪用していたわけです。

 実は、私は、今週仙台で行われる三中会合同修養会の早天礼拝の説教の役割が与えられていまして、今回の修養会のテーマに沿った御言葉の説教の備えをしています。

 そのテーマは、「リバイバルの条件」でありまして、長い間宣教師として私たちの国の伝道のために用いられてきたローレンス・スパーリンク先生が講師を務められます。

リバイバルと言うのは、そのまま訳せば「信仰復興」とでもなりましょうか。簡単に言えば、信仰が用いられて福音宣教が活発になって行く福音宣教のポジティブなビジョンです。

 私は、信徒の証が、どのように福音宣教に用いられるのかに視点を当てる説教が、今回御言葉から与えられているのですが、そこで大切なのは、信仰者の証は、キリストの言葉以上に出しゃばってはならない、ということです。証はあくまでもキリストを指し示すその補助手段に過ぎないからです。

もしも御言葉以上に証が出しゃばりますと、それは信仰の証ではなくて、罪人の自己紹介に過ぎない。キリストを証言するのは、キリストの言葉以外にはないのです。

 これが、次週の「聖書はわたしについて証しをするものだ」、この結論へと導くことでありましょう。

 「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」、私たちも光ではありません。いいえ、ともし火として機能しているかどうかも極めて怪しい。しかし、ヨハネが見ていない風景を私たちは見ています。それは、キリストの十字架と復活です。ヨハネ以上に輝く光を私たちは与えられている(ルカ7:28参照!)。少なくとも、このことは事実なのであり、それは、これ以上ない事実なのです。