2023年07月23日「御父と御子との関係」
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御父と御子との関係
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 5章24節~30節
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聖書の言葉
24節 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25節 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
26節 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
27節 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
28節 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29節 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30節 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
ヨハネによる福音書 5章24節~30節
メッセージ
説教の要点「御父と御子との関係」ヨハネ福音書5章24~30
2週にわたって丁寧に学んでいますこの24~30節の御言葉は、先週確認しましたように、まず24、25節で主イエスが永遠の命を与える方であり、同時に裁き主である、という結論が示され、その上で、26節から、その理由が説明されていく、そう言う文章構造になっています。本日は、その26節からの部分から学びます。
ここで主イエスは、その理由として、「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。(26節)」、と言われます。この「命を持つ」という表現だと少し分かりにくいのですが、これは言い換えれば、生ける真の神である、ということで、つまり、父も子も生ける真の神であるという点での両者の一体性がここで示され、主イエスが、生ける真の神であるから、永遠の命の付与者であり(21節)、「裁きを行う権能(27節)」も与えられている、ということです。
さて、その上で最終的な裁きの日が展望されます。「驚いてはならない。時が来ると墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。(28節)」、ここでは二つ確認しなければならないことがあります。
一つは、ここで言われている永遠の命をいただくための基準です。
ヨハネ福音書の他の箇所を無視して、この節だけで、その基準を理解しますと「善を行った者」が永遠の命をいただき、「悪を行った者」が裁きの対象となる、とこのようになります。つまり善を行うか、悪を行うか、それが、命と滅びを分ける基準である、と読めるわけです。しかし、その理解は明らかに間違いです。聖書の危険な読み方の一つは、全体と無関係に短い一つの節や、段落だけを見て、それこそが真理である、と早合点することです。すでに主イエスは、少し前の21節で、「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」、と明言しています。つまり、永遠の命は、御子である主イエスが、「与えたいと思う者に与える」もので、人間側の行いは基準となりません。さらに、これは、以前学びましたこのヨハネ福音書のもう一方のクライマックス部分ともいえる御言葉から簡単に導き出せます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(3:16~18)」、この通り、裁かれるか、裁かれないか、それは、神の御子であるイエスキリストを信じるか信じないかで決まります。ですから、この「善を行った者」と「悪を行った者」の分岐点は、イエスキリストを信じるか信じないか、これだけであります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」他ならぬこの神の愛がその保証となっている以上、それは間違いのない事実です。
二つ目は、時が来ると、墓の中にいる者は皆復活する、と主イエスが言われている事実で、復活と言うのは、決して信仰者に対するご褒美だけではないのです。最後まで主イエスを受け入れなかった者も、「復活して裁きを受けるために出て来る」、このことを主イエスご自身が明確にしておられるからです。実は、死ぬこと以上に不気味で恐ろしいのが、この信仰を持たない者の復活なのです。
昨今、神の愛と罪人の救いばかり語る耳ざわりの良い説教が多いのだと思います。しかし、それだけでは福音としては片手落ちです。神の怒りと罪人の滅びと無関係に、イエスキリストの十字架はあり得ません。この十字架の主イエスを信じない限り必ず滅びる、しかもその滅びは、永遠の命まで追加された恐ろしい滅びである、これが、聖書が言います事実です。
さて、主イエスの説教はまだ続きますが、ひとまずこの段落の結論が出されます。
「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。(30節)」
ここで大切なのは、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」、と最後に主イエスが言われているところです。これは、聞き覚えがないでしょうか。というよりも、私たちの信仰生活に密着した響きを持っていないでしょうか。そうです。主の祈りです。
私たちは、主の祈りの中で、「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」、と私たちの思いではなく、天の父の御心が、この地上で実現することを祈ります。私たちが今「父なる神様」と祈るのは、この主の祈りに起源をもつわけです。さらに申し上げれば、主イエスは、天の父を「アッバ父よ」と呼びました。これは「お父ちゃん」という意味であり、もっと詳しく言えば、もともと「アッバ」、というのは片言の発音で、乳離れした幼児が初めて口にする幼児言葉であるそうです。
主イエスは、十字架に付けられる前夜、苦しみあえいだあのゲッセマネの園でも「アッバ父よ」と叫び、それでも尚、主の祈りを忘れませんでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。(マルコ14:36)」、ここでも最後に、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」、と主イエスは祈られています。そしてこれが、「御父と御子の関係」でありました。
十字架で殺される、それが父の御心であっても、「アッバ父よ」、と片言の発音を覚えたばかりの幼児が何も疑わず父母を信頼するように、主イエスは御父を信頼したのです。つまり、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」、この行間に「アッバ」があり、究極的にその「アッバ」による祈りこそが、父と子との一体性を証言するものであるのです。さらに申し上げれば、主イエスが地上を歩まれた時、「御父と御子の関係」と言うのはそのまま祈りの関係であったのです。
19節から始まったこの段落の中で、「子」という字が13回も繰り返し使われていて、そう言う点でも、この箇所は他に例を見ない大切な御言葉です。聖書の読み方として、例えば、私たちが、御言葉の中に「子」という字、或いは「神の子」という字を見つけた時、その本文に「祈り」という言葉がなくても、そこに祈りの痕跡を見出すことが大切です。聖書通読は、字面だけを追ってなされるものではなく、祈りと信仰を持ってなされるものであり、「祈り」こそが、主イエスにあって神の子とされた私たちと天の御父を結び付けるからです。「神の子」は、「アッバ」による「祈りの子」なのであります。
そして、実は、紀元前後の極めて豊富なユダヤ教の祈祷書や祈りに関するあらゆる文献を調べても「アッバ」という言葉は一回も出てこなかった、という調査結果があります。主イエスの後にも先にも「アッバ」と祈れたユダヤ教の教師は一人もいなかったのです。「アッバ」と祈ったのは、主イエスだけで、それが許されているのが私たちキリスト者であるのです。この説教は、ユダヤの宗教的指導者たちに語られ、彼らの次元をはるかに超えた父と子との一体性が、ここで示されているわけなのです。