永遠の命
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 5章24節~30節
Youtube動画
Youtubeで直接視聴する
聖書の言葉
24節 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25節 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
26節 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
27節 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
28節 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29節 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30節 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
ヨハネによる福音書 5章24節~30節
メッセージ
「永遠の命」ヨハネ福音書5章24~30
先週から、安息日にいやしの御業を行った主イエスを非難したユダヤの宗教的指導者たちに対する主イエスの説教が記録されている御言葉に入りました。この箇所は、非常に大切な真理が提示されていて、このヨハネ福音書のクライマックス部分の一つです。それで、本日から学びます24節から30節までこの部分は、今週と来週の2回に分けて特に丁寧に見ていきたいと願っています。
まず、24節と25節の文頭で、それぞれ「はっきり言っておく」という言葉が記されていまして、先週確信しましたように、ギリシア語の本文では、あの「アーメン」という言葉が繰り返される表現で、これは、主イエスが非常に大切なことを言われる時の定型句です。そして、この両方の節で、「はっきり言っておく」、と言われるその内容は、主イエスこそが、永遠の命を与えられる方であり、同時に裁き主である、という真理で、この両方の節で、まず結論が先に出されて、その上で26節から、その具体的な理由が説明されていく、という文章構造になっています。
まず24節では、永遠の命の約束が2つなされていまして、同時に、これによって永遠の命の性質も明らかにされています。
一つ目は、永遠の命は、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者」に与えられる、と主イエスが約束されていることです。
ここで見逃してはならないのは、この日本語訳聖書の本文で「永遠の命を得、」と訳されている部分です。これは、ギリシア語の本文では、現在形で記されていますので、「永遠の命を得ている」と訳した方が分かりやすいでしょう。これは、このヨハネ福音書が示す非常に大切な真理でありまして、永遠の命、というのは、この地上での命が尽きた後に与えられるものではないのです。そうではなくて、私たち信仰者は、今すでに永遠の命をいただいている、永遠の命の歩みを始めている、永遠の命はそう言う性質の命なのです。
これは、私たち信仰者にとって、大きな慰めではないでしょうか。信仰者であっても肉体の死を免れる者はいません。私たちは、必ず死ななければならない。しかし、その死の床にありまして、この地上での命が風前の灯火のような状態であっても、永遠の命の歩みは何ら変わらず続いているのです。永遠の命とは、この肉体の命に全く左右されない、そう言う命なのです。信仰者と言えども、私たちは人間であり、罪深く、弱い者です。死を直前に、うろたえ、もがき苦しみ、恐れる者であります。しかし、永遠の命は、そのような私たちの状況ではビクともしないキリストの約束なのです。
永遠の命の約束の二つ目として、永遠の命は、「裁かれることなく、死から命へと移っている」、そう言う性質のものである、ということです。この「裁かれることなく、」この部分もギリシア語の本文では、現在形です。未来のことを予測するように、裁かれることがないであろう、ではなくて、今この時点で私たちキリスト者は裁かれていない、そう言う意味です。最後の審判を怖れるどころか、日々犯し続ける罪でさえ、キリストの十字架のゆえに赦されている。キリスト者である以上、ビクビクしながら生きる必要はないのです。私たちがすべきことは怯えることではなく、常に悔い改めて立ち帰ることです。
その上でさらに、「死から命へと移っている」と続きます。ここでまず覚えておかなければならないのは、実は全ての者が本来死ぬべき状況にあったということです。
つまり、最初から命を持つ資格がある者は、一人もいないということで、ただ、キリストの贖いのゆえに、本来死ぬべき者が命へと移された、そう言う意味です。
そして、ここで「移っている」、と訳されています動詞の時制は、今までの現在形とは違いまして完了形です。過去すでに実現した事実が今も続いているそう言う文法的表現です。つまり、この部分を敷衍してもともとのギリシア語のニュアンスで訳せば「すでに死から命へと移って今に至っている」そう言う理解です。私たちは、短い言葉で永遠の命と呼びますが、この永遠の命には、このように語り尽くせないような信仰者の特権が詰め込まれているのです。
さて、再度主イエスは、「はっきり言っておく」、この定型句から大切な真理を約束されます。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(25節)」、ここで、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」とあります「死んだ者」と言うのは、勿論肉体的な死ではなくて、霊的な死でありまして、これはそのまま罪人、と言い換えてもよろしいでしょう。ですから、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」、これは、全ての罪人が神の子であるキリストの声を聞く、ということであります。
そのうえで主イエスは、「その声を聞いた者は生きる」、と約束してくださっています。これは、前の節で「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、」というこの約束を簡潔に言い換えながら繰り返したものです。この執拗な繰り返しによって、主イエスが、罪人が永遠の命を得ることをどれだけ願っておられるかが、痛いほどよくわかります。
宗教改革者J・カルヴァンは、この節を解説するうえで、真っ先に「主イエスが、私たちの幸福をどんなに心にかけておられるか」、と注釈を入れています。その主イエスが「その声を聞いた者は生きる」と約束してくださっているのにも関わらず、耳をふさいで命を放棄する者がいかに多いことでしょうか。
しかし、私たちも、同じであったのです。先ほども確認しましたように、誰一人最初から命を得る資格のある者はいないからです。ただ主イエスの憐れみと一方的恩恵によって私たちは死から命へと移されているのです。つまりキリスト者である以上、少なくとも私たちは誰でも、この私が救われたという唯一無二の証言を持っているはずなのです。
昨日、立派に成長した教会の向日葵の花を見上げながら、同時に花の命の短さを感じていました。後幾日持つだろうか、と。その時、子どもたちは、向日葵の花はどこに行ったのかと無邪気に探すのでしょうか。しかし、聖書では、永遠である主なる神の目に、私たちもこの向日葵のように儚い者たちであることが謳われています。本日私たちをこの礼拝に招いたイザヤ書の御言葉です。
「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ書40:7、8)」
最近は平均寿命が延びて、100歳まで生きる人も珍しくありませんが、それでさえ「この民は草に等しい」というこの御言葉の範囲を超えることはできないでしょう。しかし、だからこそ、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」、この御言葉が響くのではありませんか。私たちがいかに儚い者であろうが、それは決定的な問題ではない。わたしたちの神の言葉である主イエスは、とこしえに立つ、この主イエスに私たちが結合されている以上、私たちもまたとこしえに立つのであります。私たちが倒れて朽ちていっても、私たちは主イエスにあってとこしえに立つ、これが永遠の命であります。