2023年07月09日「命と裁き」

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19節 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
20節 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
21節 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
22節 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
23節 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
ヨハネによる福音書 5章19節~23節

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説教の要約

「命と裁き」ヨハネ福音書5章19~23

本日の段落から、この5章の終わりまでの長い聖書個所を使って、「ますますイエスを殺そうとねらうようになった(18節)」ユダヤの宗教的指導者たちに対する主イエスの説教が記録されています。

 この新共同訳聖書では、まず、19節から30までが一つの大きな段落になっていまして、この部分に最も短く表題を付けるとしたら、「父と子の一体性」となりましょう。そして、実は、この段落は、最初の19節の「自分からは何事もできない」と、最後の30節の「わたしは自分では何もできない」という主イエスの言葉によって、その枠組みが作られています。これによって、ご自身と父なる神が寸分たがわず一致していることを明確にし、これを根拠にこの説教が語られるわけです。

 主イエスは、安息日のいやしの御業によって、ご自身に敵対することになったユダヤの宗教的指導者たちに対して、「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる(20節)」と言われました。この「これらのこと」とは、あのベトザタの池のいやしを含めた主イエスの安息日の数々のお働きを意味します。そして、文脈通り読めば、「これらのことよりも大きな業」が、何であるかはすぐに分かります。それは、2つのことでありまして、一つは次に21節で記されている「命を与える」こと、そしてもう一つはその次の22節で記されている「裁く権能」であります。

 まず一つ目の「命を与える」という権能において、ここでは父なる神様と御子である主イエスが同等であるという真理が示されています。ここで、言われている命は、「死者を復活させて命をお与えになる(21節)」、と言われていますように、勿論永遠の命です。そして、見逃してはならないのは、「子も、与えたいと思う者に命を与える」、と記されているところです。永遠の命は、御子である主イエスが「与えたいと思う者に与える」ものであるということで、つまり、主イエスが、永遠の命を与えるために選ばれた以上、私たちの状況とは無関係に必ず救われる、これは、もはや抵抗不可能とさえいえる驚くべき救いの約束なのです。

二つ目は、「裁く権能」で、「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。(22節)」、とありますように、ここでは、裁く権能が、父から子に委託されていることが明確にされています。つまり主イエスは、裁き主である、ということです。これは、私たちが毎週礼拝プログラムの中で告白する使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁かん」、と明確に謳われています。宗教改革者ジャンカルヴァンは、この「裁く」という言葉に「支配する」という意味があることに注目して、「ここでは父が子に、天と地の統治権を委ねている」、と注釈を入れています。私たちがいずこの地にいましても、その真の支配者はキリストであります。この天と地の支配者、そして裁き主が、私たちの救い主イエスキリストであります。

さて、その上で、この二つの権能がキリストに与えられている、その目的が記されています。

「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。(23節)」、これが、主イエスが私たちの命の付与者であり、そして裁き主であることの目的です。ここで、「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである」と繰り返されます「敬う」という字によって、御言葉が具体的にすべての人に求められていることは何でしょうか。それは礼拝する、ということです。父なる神を礼拝するのと全く同じように御子キリストも礼拝しなければならないということがここで記されているのです。そして、キリストを礼拝しないのなら、実は、御父をも礼拝していない、ということなのです。これはキリスト教にとって最も大切なことであり、実はこの節は、キリスト教であるか否かがふるいにかけられる重要な真理を含んでいるのです。2000年間の教会史の中で、実に多くの異端が現れ、今も尚、人々を惑わし極めて有害であります。この異端の共通点は、父なる神と御子キリストの一体性の否定なのです。キリスト教の異端は、必ずキリストを格下げする、或いは、その教祖がキリストに成りすます、これなのです。その場合、父なる神が創り主で、キリストは最初の被造物である、とこのようにキリストの神性を否定するのです。しかし、御言葉は、「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである」とありますように、父なる神とキリストが全く同じ礼拝の対象である、これ以外の立場は一切認めていないのです。

 このヨハネ福音書はこの後、聖霊もまた父と子と同じく神であり、同等である、という真理を提示します。父・子・御霊は、その栄光、力、存在において等しい一人の神である。これを通常三位一体の真理、と呼びますが、この真理で何が求められているのか。それは、父・子・御霊を等しく礼拝することなのです。私たちの礼拝の対象は、父・子・御霊なる三位一体の神である、この三位一体論の先駆けとして、ここで、「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである」、とこのように、父と子が等しく礼拝の対象である、ということが示されているのです。その中でも、私たちキリスト教は、主イエスが神であり礼拝の対象である、ここに重きを置きます。主イエスによらなければ、父なる神も聖霊なる神もわからないからです。私たち罪人は、十字架の主イエスと無関係に、父も御霊も理解できないのです。

 本日は、「命と裁き」という説教題が与えられました。この「命と裁き」の主こそが、私たちの主イエスキリストであります。そして、ここにこそ、私たち信仰者の慰めがあります。

十字架についてまで私たちの罪を贖ってくださった救い主、しかも私たちに命を与えてくださると自ら決定してくださった永遠の命の付与者であります私たちの主イエスが、最後の審判の日に、私たちを裁いてくださる、これほど安全な裁きはありましょうか。そして、これが聖書の約束なのです。

 私はマラソンや駅伝と言った長距離走を観戦するのが好きで、自分自身もへぼランナーではありますが、ランニングが少ない趣味の一つです。先週暑い中近くの公園を走りながら、今週説教で与えられた御言葉を思い浮かべていましたら、私たちキリスト者の生涯と言うのは、長距離走ととても似ていることに気が付かされました。走り出した時は、グングン走れて気持ちが良いのですが、少しずつ疲れてきて、体の所々が痛くなっていく。自分の限界以上にスピードを出すと途中で止まってしまう。頑張れば頑張るほど、ラストスパートはきつくて仕方がない。しかし、だからこそゴールした時に喜びが与えられるのではないでしょうか。その時はもう止まっていいのです。

先日私たちの群れから天に召された坂西さんも、ゴール直前で、とても苦しんでいました。早くゴールに行きたい、早くこの命が尽きて欲しい、と本音を漏らしておられました。それだけ苦しかったからです。しかし、そこに主イエスがおられるのです。私たちに命を与える裁き主、主イエスがそこにおられる、そして、ゴールした時、瞬時に、顔と顔とを合わせて主イエスに見えることが許されるのです。

私たちもやがてこの世を去っていくものです。頑張って走ってきた分だけラストスパートは辛くなるでしょう。いいえ、今ラストスパートにある方もいらっしゃる。しかし、必ずや、主イエスが片時も離れず負ぶってまでゴールへと導いてくださり、永遠の平安と喜びとを約束していてくださいます。