2023年07月01日「今もなお働いておられる神」
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今もなお働いておられる神
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- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 5章10節~19節
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聖書の言葉
10節 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
11節 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12節 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13節 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14節 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない
15節 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16節 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17節 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。
18節この ために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである
ヨハネによる福音書 5章10節~19節
メッセージ
説教の要点
「今もなお働いておられる神」ヨハネ福音書5章10~18
ヨハネ福音書講解は、前回から5章に入りまして、まずベドザタという池でのいやしの出来事が記されていました。しかし、そこには一つ問題がありました。それは、「その日は安息日であった(9節)」この主イエスの安息日のいやしであります。このことがきっかけになって、ユダヤ人たちと主イエスとの間に論争がおこるわけなのです。それが、本日の箇所で記されています。
38年の病からいやされたこの人は、その喜びのあまり、恩人である主イエスが立ち去られたことに気が付かなかったようです(13節)。歩けない人が、歩けるようになる、その38年の病から解放された喜びとはそう言うものではないでしょうか。しかし、彼はイエスの姿を見失ったものの、その言葉は失っていなかった。「床を担いで歩きなさい(直訳:歩き続けなさい)」、と言われたことをユダヤ人たちにそのまま証言し、言われたとおりに彼は歩き続けていたわけです。そもそも、安息日に彼が歩き続けていなければ、この事件は起こらなかったでしょう。
その後、このいやされた人は、自分をいやしてくれたのがイエスだとわかるとすぐにユダヤ人たちに報告しました。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。(15節)」、実は、この行為を密告だ、と捉える立場が非常に多く、聖書注解者の中でも支配的でさえありますが、それは違うと思います。このいやされた人は、当然のことをやっただけなのです。
ここでユダヤ人たちと言われているのは、当時のユダヤの指導者的な立場にあった律法学者や長老たちのことです。病人であった彼が、娑婆に出てすぐその指導者たちの偽善に気がつくはずはありませんし、律法学者や長老たちは、宗教的指導者として、庶民の尊敬を集める存在であり、このいやされた人が通う神殿の教師でもありました。ですから、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねられていたので(12節)、その人の素顔が判明した時、報告するのはいたって普通なのです。
しかし、それにしましても、ユダヤの指導者たちとの場面に変わりますと、急に事務的な会話に戻ります(10~12節も参照)。これは、この福音書の所々で見られるユダヤの指導者たちと庶民との関係です。そこに愛がないから、交わりは深まらないのです。まるでユダヤの宗教的指導者が、律法警察のように描かれるのもこの福音書の特徴です。主イエスは律法を神への愛と隣人愛のために用いましたが、ユダヤ人たちはあくまでも事務的に民衆を拘束する手段として用いていたのです。
そして、これを契機に、聞きつけたユダヤ人たちと主イエスとの間に論争が始まります。それは、安息日規定を主イエスが破っている、と彼らが判断したからです(16節)。
しかし、それが安息日論争では終わらないところが、このヨハネ福音書の特徴でありまして、この福音書では、安息日論争が、必然的にイエスは誰であるか、という議論へと発展するのです。
「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(17節)。」ここでは、主イエスが神を「わたしの父」と呼び、安息日にいやしを行われた根拠をその父なる神に求めておられます。そもそも、どうして週に一度の安息日が指定されて、その日に休むことが義務づけられたのか。それは、神が六日間で天地創造をなされ、七日目に休まれたからで、これが十戒の第四戒で、「安息日を覚え、これを聖とせよ」と謳われている根拠です。
しかし、実は、この安息日は、イスラエルの神が、救いの御業をなされたことを思い出すように命じられた日でもあったのです。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。(申命記5:15)」、とこのように、安息日は、イスラエルの歴史の中で最大の救いの出来事であるあの出エジプトを思いだす日であったのです。
神は、安息日ごとに休息されているわけではなく、むしろ、救いの業をなされている、その最たる御業の実現が安息日であるのです。そして、この聖書の立場が、そのまま主イエスの回答なのです。
「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。(17節)」、この通り、安息日は父なる神の救いが実現する日であり、それが、「わたしの父は今もなお働いておられる」という主イエスの正しい理解です。ですから、一人の病人をいやしたことは、非難されるべきではなく、むしろ、イエスが今も働かれる神の御子であることを証することに他ならないのです。この真理のゆえに、ここで安息日論争は、イエスが神の御子である、という結論へと導かれるわけです。
これに対するユダヤ人側の立場が簡潔に記されます。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである(18節)」、これが、5章の最初から始められたベトザタの池のいやしによってもたらされた結末です。安息日のいやしは、ユダヤ人に対してはイエスへの殺意という結果をもたらしたのです。この結果から、本日は、「今もなお働いておられる神」という説教題が与えられました。最後にこのことを簡単に確認して終わります。
もう一度「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。(17節)」、これが、本日の御言葉の中心、或いは、1節から始まったベトザタのいやしの結論ともいえる真理です。ここで、「わたしの父は今もなお働いておられる」、とありますこの「今」という字は、「たった今」を意味する言葉です。つまり、ここで本当に主イエスが言われていることは、天地創造から、先ほども確認しました、世界史最大の救済劇である出エジプトの出来事、この過去の大事件は、「たった今」も同じお方によって行われている、という偉大な救いの継続性なのです。
安息日は記念日ではないのです。それは、神の救いの御業が実現する時なのです。そして、その頂点に、「だから、わたしも働くのだ」と宣言した主イエスの十字架が立っているのです。
この十字架の主こそが、復活して新しい安息日を打ち立ててくださり、事務的な字面だけの律法理解から、神の愛こそが律法であることを十字架によって証明してくださったのです。
「死よ、お前のとげはどこにある」、この永遠の命の約束が「今」ここに満ちています。
ですから 「今」、私たちは、この復活の主に見えるために、安息日にこの場所に集まって礼拝をおささげしているのです。今日のこの安息日も、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この御言葉が世界中で響き渡り、十字架の救いが実現しています。私たちのこの群れにも、主イエスがおられて、必ずや十字架の救いが実現することを確信しようではありませんか。
今日は特にこの後、聖餐式に与ります。ここに、主イエスが御言葉によって霊的に御臨在され、私たちに永遠の命を保証してくださいます。ここにおられる主イエスを信仰の目で仰いで共に喜びましょう。