2023年06月18日「迷信からの解放」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2節 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3節 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5節 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6節 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7節 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。
8節 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9節 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

(†底本に節が欠けている個所の異本による訳文)
 彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
ヨハネによる福音書 5章1節~9節

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説教の要約

「迷信からの解放」ヨハネ福音書5章1~9

 本日から、ヨハネ福音書講解は5章へと入って行きまして、まず、ベトザタと呼ばれる池での病人のいやしの記事が記されます。

 そこには、「三十八年も病気で苦しんでいる人(5節)」が登場します。それにしましても、三十八年と言うのは非常に長い年月であります。特に、その期間ずっと病が治らないでいた、というのですから気の遠くなるような話であります。しかし、三十八年も病が治らないのに、それでも尚、その場所にとどまっている、というこの病人の姿も異常に思えないでしょうか。逆に見れば、この池には、彼を三十八年縛り付ける何らかの理由があったわけです。そして、その理由が、4節で説明されていたのですが、この節は、もともと聖書本文にはなかったため、省かれてしまい、参考資料として、ヨハネ福音書の巻末に記されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」、これは、この時代にあった迷信を、聖書の写本を複製する段階で、例えば理解を助ける目的で書き込んでいた、というのが、大方の見解です。そのような余計な作業によって、迷信が紛れ込んで、聖書本文のように記されてしまいますのは、信仰者にとっては、非常に迷惑な話であります。しかし、当時このような迷信が、まかり通っていた、という情報がここで与えられるのは、かえって聖書本文を理解するうえでは有益でもありまして、つまり、この迷信が、病人を38年間、この池に縛り付けていた原因であります。

すると、そこに主イエスが現れて、「良くなりたいか(6節)」と言われました。これは、普通に考えると非常識な質問のように思えます。この病人がここにいるその理由は、「良くなりたい」からです。萎えた足が治って元気に歩き回りたいからです。しかし、彼の38年は、その希望をすでに奪っていたのではないでしょうか。最初は、良くなりたいから、エルサレムの一等地にあるベトザタの池にやってきた。しかし、38年の年月は、その希望を打ち砕くのに十分すぎる期間であったのです。絶望しか見えない安住の場所、それがこの病人のベトザタであったのではないでしょうか。

 さて、病人が回答いたします。「病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。(7節)」

彼は、すでに絶望しているのです。しかし、迷信の本当に恐ろしいことは、絶望のままでいるのを許すことではありませんか。迷信に支配された時、人間は、現実逃避によって、絶望という感情さえ曖昧にするのです。それが、今のこの病人の見ていた風景であります。

 しかし、主イエスは、そのような迷信には全く興味を示しません。「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。(8節)」、ここで、主イエスがまずこの病人に言われた「起き上がりなさい」この起き上がる、という字は「復活する」ともよく訳されている聖書的に非常に重要な言葉です。

 迷信に束縛された彼の38年間は、まさに生ける屍のような時間でした。その死んだような状態から、よみがえれ、と主イエスはここで命じておられるわけです。そして、文法的にこの「起き上がりなさい」と言うのは、一回的な動作を指示する命令法です。しかし、最後に、「歩きなさい」と訳されている動詞は、継続した動作を指示する命令法でありまして、「歩き続けなさい」と訳した方がもともとのギリシア語本文には忠実です。死んだような状態から「起き上がれ」、これは一回的な行為で、再びその状態に戻らない、それがキリストの救いでありまして、そこから永遠の命が始まっているわけです。しかし、その永遠の命の歩みを止めてはならない、だから、「歩き続けなさい」なのです。この主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という短い言葉に、実はキリスト教の救いの本質が示されているわけであります。

 さて、今度は病人の方に目が向けられます。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。(9節)」、この病人は、主イエスの一言で、彼を38年間縛り付けていた迷信から解放されました。大切なのは、この病人がイエスの言葉を信じて立ち上がったことです。38年間立ち上がることが出来なかった彼が、初対面であったイエスの言葉に従って立ったわけです。ここでも主イエスの言葉を信じる=生きる、という公式が採用されています。

 その上で、最後にこのベトザタのいやしの出来事の角度を変えて、二つの視点から確認して終わりたいと思います。

 一つは、主イエスの選びです。「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(3節)」、とこのように、この池にはいやされたいと願いながら、迷信に支配されていた人々が大勢横たわっていたのですが、その中で、「三十八年も病気で苦しんでいる人」だけがいやされました。どうしてでしょうか。それはわからないのです。ただ、主イエスの選びとしか言いようがないのです。それでも、あえて一つ言えるとしたら、この病人が完治する可能性はなかった、ということです。この世の視点で見れば、三十八年病気で苦しんでいる人は、39年目も、40年目もそのままでしょう。しかし、主イエスの選びは、その不可能を可能にするのです。言い換えますと、キリストの救いは、人間の側の要素や条件や状況を全く問題にしないということです。ご自身の家族や親友の救いを長い間祈り続けておられる方もいらっしゃるかもしれません。その希望をあきらめる必要はないのです。主イエスの選びであれば、時間がかかっても必ず救われるからです。大切なのは、38年でも祈り続けることです。

 もう一つは、宗教改革者カルヴァンの視点です。

 カルヴァンは、この箇所に次のような注釈を入れています。「この哀れな病人は、私たちのほとんどすべての者がいつもしていることをやっている。それは、彼が、自分の考えに従って神の助けに枠を定め、限界づけをして、自分の悟性で理解出来る以上のものは認めようとしていないからである。」

 カルヴァンは、この病人に私たちの姿を投影させるのです。鋭い指摘です。私たちは、信仰者でありながら、自分たちの可能性に立って、この世的に、合理的に、神の救いを理解しようとします。その場合、信仰は、この世の枠の中に制限され、やがて迷信にさえなり得ます。私たちは、神の言葉さえ迷信に変えてしまう愚かさを持っているのです。大切なのは、神の可能性に立つこと、御言葉に立つことです。「ベトザタ」というヘブライ語の字は、恵みの家という意味を持ちます。私たちは今、教会という恵みの家にいます。つまり、「この哀れな病人は、私たちのほとんどすべての者がいつもしていることをやっている。」、とカルヴァンが言いますのは、私たちの教会の姿です。私たちもまた、恵みの家に居ながら、この病人のように全能の神の力を忘れていないでしょうか。私たちは、今、新しい会堂を建てようとしている。家族の救いを何年も祈り続けている。愛する者が病の床にある。ここがベトザタである以上、その全てにキリストが手を差し伸べてくださることを信じようではありませんか。