2023年06月11日「救い主との距離」
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救い主との距離
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 4章43節~54節
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聖書の言葉
43節 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
44節 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
45節 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
46節 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
47節 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
48節 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
49節 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
50節 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
51節 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
52節 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
53節 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
ヨハネによる福音書 4章43節~54節
メッセージ
説教の要点
「救い主との距離」ヨハネ福音書4章43~54
本日の御言葉は、主イエス故郷であるガリラヤで行われた王の役人の息子のいやしの記録です。
当時ガリラヤの領主は、ヘロデアンティパスでありましたので、王の役人、というのは、そのガリラヤ領主ヘロデ王の家来でありました。この王の役員は、「息子が死にかかっていた」、という切羽詰まった状況にあって「イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ(47節)」わけです。
しかし、主イエスは厳しいことを言われます。「イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。(48節)」、ここで、注目したいのは、主イエスが、王の役人に対する回答であるのにも関わらず、「あなたがたは」、と言っているところです。
ですから、これは、直接的には、勿論この王の役人に対して言われているのですが、それだけではなくて、エルサレムや、ガリラヤのしるし信者(奇跡や不思議な業を見て信じる立場)全てに向けられているわけなのです。或いは、私たちを含めて、この聖書から御言葉を与えられる全ての罪人に対する忠告でもあるのです。私たちも又、このしるし信者の要素を持ち合わせているからです。
しかし、次の王の役人の回答が大切です。「役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。(49節)」、つまり、「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、とあしらわれた彼が今、しるしや不思議な業を見ないで信じようとしているのです。主イエスの言葉の前に必要なのは、弁解することではなく、抗議することでもなく、或いは開き直ることでもなく、ただ主イエスに信頼し、憐れみを乞うことなのです。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、そうです。その通りなのです。しかしそれでも尚、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」、と食い下がり、主イエスの憐れみに縋る、これが信仰ではありませんか。信仰は、きれいごとではなく、絶望的な私たちの罪と弱さの只中でこそ立ち上がる力です。信仰とは、人格者の手柄ではなく、愚か者へのプレゼントだからです。
さて、主イエスが回答されます。「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。(50節)」、この節が本日の御言葉の中心です。 ここで、まず大切なのは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」、というこの主イエスの言葉です。
ここで、「生きる」という字が使われていますが、これは、「命」、という名詞が動詞になった字でありまして、このヨハネ福音書のキーワード中のキーワードです。この言葉の重要なところは、肉体の命以上に永遠の命を対象にした「生きる」、という意味を持っているということで、これこそが、この福音書の中心的真理です。
さらに、続けて「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」、とナレーションで語られているところが、二つの点で重要です。
一つは、異邦人どころか、洗礼者ヨハネを殺したヘロデ王の家来が信じた、という事実です。前回の記事では、サマリア人が、「イエスの言葉を聞いて信じた(4:41)」、そして今日も、王の役人が、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」、これが、御言葉で証言されているのです。
二つ目は、ここで、「あなたの息子は生きる」、この主イエスの言葉に対して、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」、とこのように両者が相関的に使われていることです。「イエスの言葉を信じる」=「生きる」という公式がここで姿を見せるのです。これは、この後5章で表される非常に大切な真理の宣言を用意する機能を持っています(5:24、25参照)。
その上で、本日の御言葉でとても大切に思われるのは、この永遠の命を与えてくださる主イエスと私たちとの距離感です。今主イエスは、ガリラヤのカナにおられます。そしてそこにカファルナウムから王の役人がやってきているわけなのです。カナからカファルナウムまでは、約30キロの距離があります。つまり、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」、と主イエスが言われた時、その息子は、30キロも離れたところで死にかけていたわけです。しかし、ここでは、その距離は全く問題とはされていません。
主イエスは、まるでご自身の傍らに病人が横たわっているかのように、いやしの手を差し伸べておられるのです。これが、私たちと救い主との距離感ではないでしょうか。
大切な家族の命が風前の灯火である時、私たちは何を思うでしょうか。
「みちのくの、母の命を一目見ん、一目見んとぞただ急げる」、これは、大変有名な「死に給う母」の冒頭にある斎藤茂吉の詩であります。この茂吉の気持ちがわからない方はおられないのではないでしょうか。今、彼を阻むのは、みちのくまでの距離であります。特にこの時代は、今のように交通の便が整っていなかったのでその距離感は如何ばかりであったでしょうか。胸が詰まる思いです。
カナからカファルナウムまでもそうであったでしょう。しかし、この役人は、茂吉と正反対の行動をとっています。死にゆく息子の許に急ぐのではなく、そこからどんどん離れて、主イエスの許に急いだのです。そして、彼が最も息子から離れた時に、その息子は生きたのです。
これが救い主との距離感ではないでしょうか。私たちは、みちのく、或いは30キロ、いいえ、数キロ、数百メートルでも離れていれば不安でなりません。しかし、主イエスの前にその距離は、問題とはならないのです。私たちの手の届かない距離であっても主イエスの目の前にあるからです。
或いは、大切な家族の死に目に会えないという事態もよくあることです。実際私は、父母、そして一つ下の弟が息を引き取る時、遠い場所におりました。肉親の臨終にことごとく立ちあえていないのです。しかし、信仰者である以上、永遠の命の付与者主イエスが、その今際の際におられる、これ以上の慰めがありましょうか。
大切なのは、「死に給う母」という現実に際しても、私たちが主イエスの許にあって、信仰の旅を続けることであります。そして、その家族もこぞって信じることであります(53節)。
このヨハネ福音書には、もう一つ距離を飛びこえた救いの出来事が記録されていまして、そこでも主イエスへの信仰=生きる、というこの公式が採用されています。あのラザロの復活の場面です。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25、26)」
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、この主イエスの約束は、「死に給う母」への距離感を解放する決定的な慰めであり、そしてやがて死にゆく私どもの揺るがぬ希望であります。
私たちは、距離や時間に束縛される弱い者でありますが、「復活であり、命である」この主イエスの許にあって信仰の旅を続ける以上、それはもはや問題ではありません。