2023年06月05日「サマリア伝道の終章Ⅱ証言が用いられた救い」

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サマリア伝道の終章Ⅱ証言が用いられた救い

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章39節~42節

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39節 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
40節 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
41節そ して、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
42節 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
ヨハネによる福音書 4章39節~42節

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説教の要約

「サマリア伝道の終章Ⅱ証言が用いられた救い」ヨハネ福音書4章39~42

本日の箇所は、サマリア伝道の記録の最終回で、このサマリア伝道の記録の結論が描かれている場面であります。

前回確認しましたように、この段落は、一つ前の段落にあります28~30節の部分と直結しています。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。(28~30節)」、このように、サマリアの女の起こした行動によって、多くのサマリア人が主イエスの許に押し寄せてきたわけです。

「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます」、とサマリアの女は、人々を誘い、そしてサマリアの人々は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。(39節)」、つまり、ここでは、「わたしの行ったこと」、これが両者の間で共有されたことがポイントなのです。

しかし、この女性にとって、その「わたしの行ったこと」、と言うのは、多くの人々と共有できるような代物であったでしょうか。さらに言えば、共有する価値があったでしょうか。いいえ、それは、彼女にとっては、恥ずかしいことであり、両者にとっても全く価値のないものでした。それどころか、もともと、「わたしの行ったこと」、これが、この女性とサマリアの人々との間に深い溝を作っていたその原因でした。そして、それは、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ(18節)」、この彼女のこのふしだらな生き方でありました。

恐らく、彼女には、まだ恥ずべき多くのことがあったでしょう。叩けばいくらでも埃が出たはずです。

 しかし、「わたしの行ったことをすべて言い当てた」、とこの女性が言っていることに注目したいのです。つまり、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」、これは、彼女にとっては、自分の今までの行動の全てを言い当てられるのと同じくらい恥ずかしい事実であったのです。現代とは比較できないくらいに、当時のこの彼女の生き方には問題があったはずです。サマリアの女は、これが後ろめたくて、人々の目を避けて、ひっそりとした生活を続けてきたわけです。

しかし、今や、両者を引き裂いていたその原因が、両者を結び付ける原因に変わったのです。

この変化が、二つの点で極めて大切です。

 一つは、過去犯した自分の最も恥ずべき行為でさえ、主イエスにあっては、問題とはならない、ということです。私たちは、抽象的に「罪を犯しました」ということはできます。しかし、その一つ一つが、いつだれに対して何をしたか、何時何を思ったか、それを言うことは非常に困難です。自分自身で比較的軽いと思われる罪でさえ、いつだれに対して何をしたか、何を思ったか、という事実をありのままに白状することが、果たして出来るでしょうか。しかし、主イエスにあっては、その最も恥ずべき罪でさえ、もはや重荷とはならないのです。

同時に二つ目、それさえ、伝道に用いられる、ということです。

「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」、この恥ずべき事実が逆に彼女の証となって、人々を主イエスの許に導いたのです。私たちの罪や恥まで用いて、主イエスの福音は宣教される、ということです。

最後にこのサマリア伝道の記録の結論が出されます。

「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。(41、42節)」、これが、主イエスがサマリアの女に「水を飲ませてください」、と頼んだことから開始されたサマリア伝道の結果です。

 サマリアの人々は、「イエスの言葉を聞いて信じた」のです。その時、彼らにとって、「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」、というサマリアの女の証言は、もはや不要にさえなっていました。

 実は、これが証の役割です。私たち信仰者の証は、キリストの言葉の前には、もはや役割を持たないのです。もしも御言葉以上に証が出しゃばりますと、それは信仰の証ではなく、罪人の自己紹介に過ぎません。この記事から、私たちの信仰の証が、御言葉の前に額づき、御言葉に仕えるためにある、ということを覚えておきたいのです。

 本日は「証言が用いられた救い」、という説教題が与えられました。

 サマリアの女の証言は、今やその役割を終えたわけですが、確かに人々を主イエスの許に導くために機能したからです。

 このことについて二つのことを確認いたします。

 一つは、彼女は、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」、と叫んで人々を主イエスの許に招きました。それで、多くの人々は集められたのです。

 しかし、今私たちキリスト者の中で、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」、と伝道する者がおるでしょうか。いいえ、主イエスの十字架と復活が実現した今、そして聖書が完結した今、私たちは、「この方こそメシアである、この方こそ我らの主イエスキリストである」、と宣言することが許されているのです。なんと偉大な変化でしょうか。

 今や、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」、これをはるかに超えた福音を私たちは委ねられているのです。「十字架と復活の主こそイエスキリストである」、私たちは、まずこの福音を宣言すること、そしてそのために私たちの証が用いられることを願うのです。

二つ目、もう一度、このサマリアの女がとっさに取った行動の三つの要素を最も簡単にまとめると次のようになります。

「彼女は、我を忘れて、一目散にイエスを伝えるために同胞の許へかけていった。」

 これが、聖書の言います伝道ではないでしょうか。

 私たちの改革派教会におきまして、大会にも中会にも伝道委員会という組織は与えられていますし、ほとんどの各個教会にも組織されているのだと思います。組織ですから、予算や計画を立てていくのは、とても重要で、蔑ろにすることは出来ません。しかし、「彼女は、我を忘れて、一目散にイエスを伝えるために同胞の許へかけていった」、というこの信仰が、いつの間にか忘れ去られてはいないでしょうか。

どうして、我を忘れることが出来るのでしょうか。それは、もっと大切なものを見つけたからです。

私たちは、自分以上に大切なものを福音の中に見出していますでしょうか。