2023年05月21日「サマリア伝道の終章Ⅰ永遠の命の収穫」
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サマリア伝道の終章Ⅰ永遠の命の収穫
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- 説教
- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 4章27節~38節
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聖書の言葉
27節 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28節 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29節 さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。
30節 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31節 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
32節イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
33節 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34節 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
35節 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
36節 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37節 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
38節 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。
ヨハネによる福音書 4章27節~38節
メッセージ
説教の要約
「サマリア伝道の終章Ⅰ永遠の命の収穫」ヨハネ福音書4:27~38
本日から、サマリア伝道のエピローグ部分と言えるところに入って行きます。最初の27~30節までの段落は、39節以下の段落につながっていますので、この部分は次回にまわして、本日は先に31~38節の御言葉に教えられたい、と願っています。
ここで、サマリアの町で食料を買って戻ってきた弟子たちに主イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある(32節)」、と言われました。
ここから主イエスは、サマリアの女に対して語ったことの延長線上にある永遠の命の福音を弟子たちに語ってくださるわけなのですが、何のことかさっぱりわからない弟子たちに、主イエスは続けます。「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(34節)」、ここで、主イエスは、「あなたがたの知らない食べ物」、と言っていた「わたしの食べ物」が、何であるかを明確にしていまして、食べ物が、単に口に入れる食物ではなくて、主イエスがこの世に遣わされた目的そのものになっています。そして、それが以下の節で福音宣教に展開されて説明されていくわけですが(35~38節)、ここでは福音宣教は、今や収穫の時である、ということと(35節)、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」、と「種を蒔く人」と「刈る人」の両者の関係が明確にされています(36、37節)。
実は、これは『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざ(37節)」を大きく修正した理解で、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』、これは、本来自分の苦労が報われないことを嘆く意味を持つ諺です(コヘレト2:20~21、ミカ6:15参照)。 どうして種を蒔くのか、それは収穫を期待するからで、徒に種を蒔く人はいません。ところが、折角種を蒔いたのに別の人が収穫してしまう、これは、何とも空しいことであります。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』、ここには悲壮感が漂っています。
しかし、福音宣教は、それさえも簡単に覆してしまうということで、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」、とこの諺が大幅に修正されてしまうのです。そして、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」となるその決定的な理由は、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした(38節)」この主イエスのご計画であります。そもそも、種を蒔く人の主であります、主イエスが、この仕組みを作られた、だから「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」という正反対の事態が起こる、ということです。
ここで、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるため」、と言われると少し不服に思われる信仰者もいるかもしれません。主イエスの弟子たちもそうであったと思います。弟子たちは、主イエスが復活され、天に昇られた後、命を懸けて福音宣教に勤しみました。私たちの時代は、その初代教会の苦労を思いますと、全く届かないレベルですが、それでも、福音の種を蒔くチラシ配り等を始めとして、多くの伝道活動における苦労があります。しかし、実はそれらは、全て収穫の方に含まれるのです。福音の種はすでに蒔かれ、私たちが行っている全ての伝道活動は種まきではなく、収穫の働きに移っているのです。それが、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と続けられてさらに明確にされています。これは、直接的には、主イエスの弟子たちに語られているわけですから、最初期の教会から、さらに細かく言えば、丁度次週学びますペンテコステの出来事以前から福音宣教は収穫の時期に入っている、ということです。
ですから、ここでは、「他の人々が労苦し」と言われています「他の人々」の範囲が限定されてくるわけです。それは、十字架の主イエスを頂点とした旧約時代の全ての神の民であります。主イエスの十字架が最大の歴史の転換点であり、そのための備えをしてきた洗礼者ヨハネまでの信仰者は、種を蒔いただけで、その目で主イエスの十字架と復活を見ることは出来ませんでした。
これはヘブライ書の信仰者列伝と言われる系譜の中で語られています(ヘブライ書11:13、39、40を是非参照してください。)。旧約の信仰者は、その収穫を信仰の目で確認して、種だけ蒔いて地上を去って行ったのですが、私たちは、彼らの希望そのものを丸ごといただいているのです。
さらに、その種まきが、主イエスの十字架によって実現した、それが実は本日の御言葉で暗示されていて非常に重要です。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(34節)」、実は、ここに主イエスの十字架で主なる神様の救いの御計画が実現することが予告されています。「その業を成し遂げることである」この成し遂げる、という字は、このヨハネ福音書でここに初めて出て来ます。そして、実は、この福音書でこの言葉は、最後に主イエスの十字架の場面で使われて終わるのです。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(19:28)」、ここで、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とありますこの「成し遂げられた」、これは、本日の御言葉で「成し遂げる」と訳されている言葉と語源が同じです。さらに、「こうして、聖書の言葉が実現した」、この「実現した」、これは、本日の御言葉で「成し遂げる」と、訳されている言葉と全く同じ字です。主イエスの十字架によって、「聖書の言葉が実現した」、つまり種まきが終わった、ということです。主イエスの十字架、この事実が頂点にあって、旧約聖書の歴史も、預言も、知恵も、全ての信仰者も、今ここで完結した、後は収穫の時代なのです。
最後に、二つ大切なことを確認いたします。
一つは、ここにキリスト教の姿が鮮やかに描かれているということです。種まきは、主イエスまでの旧約の信仰者によってなされ、主イエスの十字架によってすべてが完了しました、その収穫に新約時代の信仰者が与り、今私たちも、そして世の終わりまでその収穫は続きます。その全体像が「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」と言い切ることが出来る、これがキリスト教であります。古の旧約の時代から現代、そして世の終わりまで、その真理は微動だにしない、だから、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ、という事態が起こるのです。時代が変わろうが、神の約束は変わらない、主イエスの十字架によって実現した救いと祝福は、最後の最後まで何一つ違わない、一点一画さえ変わらない、これがキリスト教であります。
もう一つは、今礼拝をおささげしているこの私たち自身が収穫である、という事実です。
旧約の昔から蒔かれた種の実りが、他でもないこの私たちである、主イエスの十字架で完了したその種の収穫が私たち自身である、私たちこそは、古からの信仰者の、何よりも十字架の主のその労苦の実りそのものであります。永遠の命に至る実とは、この私であります。
今や、永遠の命に至る実が、永遠の命に至る実の収穫に用いられているのです。
信仰の目を開いて、この終わりの時の祝福を目撃し、福音宣教に勤しみましょう。