2023年05月14日「まことの礼拝(後)」
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まことの礼拝(後)
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 4章16節~26節
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聖書の言葉
16節 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17節 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18節 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19節 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20節 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。
21節 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22節 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23節 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24節 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
25節 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。
26節 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである
ヨハネによる福音書 4章16節~26節
メッセージ
説教の要約
「まことの礼拝(後)」ヨハネ福音書4:16~26
先週から、ヨハネ福音書4章の16~26節までの御言葉に教えられています。この箇所は、私たちキリスト者にとって何よりも大切である神礼拝について定義されていまして、非常に重要でありますので、前編、後編の2回に分けて御言葉に聞いております。
先週は、21節までで、主イエスがサマリアの女に、まことの礼拝を示されるまでの経緯を見てまいりました。実に、夫をとっかえひっかえ生きて来た身持ちの悪いこの女性は、偶像崇拝を神礼拝にすり替えていたサマリア教団の投影でありました。今主イエスは、その異端ともいえるサマリアの女に、まことの礼拝が何であるかを示されるわけです。
それが、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(23節)」、この御言葉です。結論から申し上げれば、ここでは、人間の可能性で献げられるあらゆる礼拝が否定されています。そもそも、私たちは、まことの礼拝など献げられないのです。「まことの礼拝をする者たち」、というのは、自らにそのまことの礼拝をする資格があるわけではないのです。
この御言葉の正確な意味を理解するためのキーワードは、ここで、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、或いは次の節で、「霊と真理をもって礼拝しなければならない(24節)」と繰り返されている「霊と真理をもって」これであります。この「霊」と言うのは、恐らく聖霊なる神様であろう、とすぐに目星がつけられると思います。では、「真理」とは何でしょうか。実は、この福音書の中にその解答は散りばめられています。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(16:13)」ここでは、聖霊なる神様が、「真理の霊」と言い換えられています。しかし、それだけでなく、その「真理の霊」である聖霊なる神様が、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」、と続きます。では、この「真理」とは何か。それは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」、この御言葉で謳われている通り、真理とは主イエスキリストご自身であります。このサマリア伝道の記録の最大のテーマの一つでもあります「イエスはだれか」、ここではイエスが真理であることが示されています。
この真理であるキリストを通らなければ、「だれも父のもとに行くことができない」、つまり礼拝をすることなどできない、ということなのです。すなわち、聖霊なる神様とキリストによって初めて父なる神を礼拝することが出来るのであって、人間のあらゆる可能性をたどってみても父なる神を礼拝することなどできない、これがここで明らかにされているのです。このキリストと聖霊なる神様によって父なる神を礼拝する者だけが、「まことの礼拝をする者たち」に他ならないのです。私たちがまことの礼拝者になるのではなくて、キリストと聖霊なる神様によってそのようにさせられるのです。
主イエスは、さらに続けます。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(24節)」、ここでまず、「神は霊である」と謳われた上で、先ほどの節で示された大切な礼拝の核心が繰り返されます。
ここで、「神は霊である」と言われる時、私たちは二つのことを理解しておかなければなりません。
一つは、私たち人間が肉であるのに対して、「神は霊である」ということです。
繰り返しになりますが、肉である私たちの可能性では神礼拝など出来ず、聖霊なる神様に導かれ、キリストを通して初めて礼拝することが許される、それゆえに「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」、とここでも続くわけです。
もう一つは、「霊である」ということさえ神様の必然ではないということです。
「神は霊である」と言われる時、それは「神は霊でなければならない」ということではありません。霊と言うのは神様の一つの属性であって、神様が霊という状態に支配されているのではない、ということなのです。霊と言うのは、全能者であり、永遠不変無限の神にとっては、全くつまらない一つのご性質に過ぎないのです。では、どうして聖書は「神は霊である」、と言うのでしょうか。
それは、人間との関係において、「神は霊である」、ということなのです。言い換えれば、「神は霊である」、というのは、生ける真の神が私たち人間との交わりに遜ってくださったその状態であるのです。例えば、「神は愛である」、という時も同じです。神が愛でなければならないことはないのです。
しかし、私たち罪人との関係で「神は愛」なのです。その頂点に主イエスキリストの十字架があるわけです。ここまで確認して、改めて、この23節、24節でさらに重要なのは、ここに三位一体の神が礼拝によって鮮やかに示されていることです。
実に、ここでは、まことの礼拝をする者たちとされた私たち礼拝者が、霊と真理をもって父を礼拝する、すなわち、聖霊に導かれ、キリストを通して、父なる神を礼拝する、という神礼拝の全体像が描かれているのです。鳥肌の立つような御言葉であります。罪人である私たちが、礼拝というキリストの宴の中で、三位一体の神と交わりを許されている、これ以上の祝福がありますでしょうか。
一神教はキリスト教だけではありません。ユダヤ教も、イスラム教も一神教です。しかし、一神教のその唯一の神が三位一体の神である、これがキリスト教です。それゆえに、他の一神教とは比較にならぬほど神様が近いのです。近いどころか、神がキリストによってインマヌエルであり、聖霊によって神と生きた交わりを与えられている、これがキリスト教であり、それが最も鮮やかに実現しているのが、神礼拝なのです。そして、このサマリアの女は、まことの礼拝者として今招かれているのです。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」、これは、誰よりも先にこの女性に語られているのです。なんと低いハードルなのでしょうか。
人間の可能性でまことの礼拝をおささげすることはできない、しかし、神の可能性に立てば誰でもまことの礼拝者とされる、それが今このサマリアの女とサマリア教団に宣言されているのです。
すなわち、まことの礼拝者の資格は、私たちが用意するのではなくて、キリストが与えてくださる、ということです。主イエスは、彼女の素性を全てご存知でした。夫をとっかえひっかえ生きて来た身持ちの悪い女性、そして彼女のその行為は忘れられるどころか、一つ一つ正確に数えられていました。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」この通りです。しかし、何一つ忘れられていないにもかかわらず全てが赦されているのです。これが罪人に向けられた福音ではありませんか。私たちが過去犯した罪は全て数えられていますし、消えない記憶の中で自分を苦しめる過去の罪もあります。しかしその全てが赦されている、これ以上、悩む必要はないのです。他者が、或いは自分自身が赦せなくても、究極の審判者でありますキリストの御前で赦されているのですから。