2023年05月07日「まことの礼拝(前)」
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まことの礼拝(前)
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ヨハネによる福音書 4章16節~26節
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聖書の言葉
16節 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17節 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18節 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19節 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20節 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。
21節 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22節 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23節 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24節 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
25節 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。
26節 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである
ヨハネによる福音書 4章16節~26節
メッセージ
「まことの礼拝(前)」ヨハネ福音書4:16~26
前回は、早くもサマリア伝道の記録の最初のクライマックス部分に入り、そこでは、神の賜物が、主イエスによって私たちの中に住まい給う聖霊なる神様の保証される永遠の命である、ということが「汲めども尽きぬ命の泉」という麗しい表現で示されました(14節)。
さらに本日の御言葉から「まことの礼拝」が示されることで、このサマリア伝道の記録は、再度佳境へと向かっていきます。非常に大切な御言葉でありますので、今回はこの16節から26節までの段落を今週、来週の二回に分けて丁寧に学び、本日はその前編として21節までを中心に教えられたいと願います。
先週は神の賜物が何であるかが主題となりましたが、ここからは、イエスキリストはどなたであるかが解明されていきます。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない(18節)」、と主イエスに自分の素性を言い当てられたサマリアの女は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。(19節)」、と主イエスの正体に迫ります。
ここで間違えてはならないのは、サマリアの女の言いますこの預言者の概念です。実はサマリア教団は、旧約聖書全体を聖書と見なさず、モーセ五書と言われる旧約聖書の最初の五つの部分を自分たちの聖書としていたのです。
先週確認しましたように、サマリア教団は、アブラハム、イサク、ヤコブと言った族長時代に、彼らのルーツと誇りを持っていました。それが描かれているのがモーセ五書であったからです。
ですから、サマリアの女が言います預言者とは、エリヤやエリシャではなく、「モーセのような預言者(申命記18:18)」に限定されるのです。そして、彼女は、イエスが、「モーセのような預言者である」、と推測したからこそ、続けてサマリア教団の抱えている本質的な、最も大きな問題を投げかけているわけです。それが、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。(20節)」、これです。ここで、サマリアの女が言っています「この山」、というのは、サマリアにありますゲルジム山のことです。このゲルジム山が、ユダの都エルサレムに対抗して、サマリア人が礼拝の場所と定めていたサマリア教団の本拠地でありました。
北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時、その都サマリアに住んでいた多くのイスラエルの民は、アッシリアに連行され、サマリアの地には、他の民族が送り込まれ、人種的混淆が行われました。(列王記下17:21~40にその詳細が描かれています)。北イスラエル滅亡の混乱の中で、その都サマリアは、他民族に占拠され、神の民イスラエルとしては機能しなくなり、その宗教事情は酷いものとなりました。ユダヤ人は、この頃からサマリア人とは完全に絶交状態となってしまい、サマリア人を異邦人扱いし、自分たちはエルサレムを都に神礼拝を続けてきたのです。そのユダヤの都エルサレムに対抗して、サマリア人が礼拝の場所と定めたのが、ゲルジム山であったわけです。
しかし、礼拝の場所云々以前に、そもそも、彼らは旧約聖書を自分勝手に取捨選択し、都合のいいように解釈していました。もうその時点でサマリア教団は神の民としては失格であり、忌まわしい異端に他なりません。ですから、そもそもこのサマリアの女の問いかけは、支離滅裂であり、まともに答える必要などない全く愚かなものであったのです。
ところが、主イエスは、その愚かな質問に回答いたします。「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(21節)」、と。ここで、大切なのは、主イエスが、「婦人よ、わたしを信じなさい」、とご自身に対する信仰を求めておられることです。そのうえで、主イエスは、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」、と宣言しておられます。
日本語訳の聖書では、この節の最後の「父を礼拝する時が来る」、の部分は未来形のように訳されていますが、実は、ギリシア語聖書でこの部分は現在形でありまして、正確には「父を礼拝する時が来ている」、とこのように主イエスは言われています。主イエスを信じる時、場所を問わずに、父を礼拝する時が来ている、これがこの節で示されている真理なのです。
そして、次週になりますが、これがまことの礼拝というかたちで、さらに詳しく展開されていきまして、再度このサマリア伝道の記録のクライマックスへと入って行きます。
本日は、その前提として二つのことを確認しておきます。
一つは、まことの礼拝が、サマリアの女に語られる、ということです。何度も申し上げますが、この女性は身持ちが悪く、サマリアの中でも孤立していました。しかし、実はそのサマリアこそが、この女性の隠れ蓑になっていたのではありませんか。むしろ、人種も宗教も滅茶苦茶で、偶像崇拝を神礼拝にすり替えて来たサマリア教団の姿の投影が、このサマリアの女なのです。
聖書的に偶像崇拝は姦淫の罪に言い換えられています(エゼキエル16:15、ホセア9:1等参照)。夫を取っ替え引っ替え生きて来たこの女性は、実はサマリア人の象徴です。その女性に主イエスは福音を語るために、真の礼拝をこれから示されていくのです。
しかし、サマリア以上に、宗教的混乱に歯止めがかからないのが私たちの国ではありませんか。
「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない、」、と一生の中で、取っ替え引っ替え信仰の対象が変わる、これこそが私たちの国の宗教事情です。そこに一番必要なのは、まことの礼拝が示されることなのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」、この主イエスの言葉は、そのまま私たちに委ねられています。異教社会にあってまず私たちはまことの礼拝をお献げするのです。まことの礼拝から福音宣教は始まるからです。
二つ目は、これも繰り返し申し上げてきましたが、この記録では「神の賜物は何か」、ということと「イエスは何者であるか」、ということが明らかにされていきます。そしてそれは、まことの礼拝に与ることによって初めて明確にされる、ということであります。
神の賜物である永遠の命も、主イエスキリストを理解することも、まことの礼拝が前提にあるのです。
どちらもその解答は、聖書で十分かつ明確に示されていますし、さらに詳しく聖書を解説した註解書、或いは神学書などを紐解いて、体系的な知識を習得することも可能でしょう。
しかし、それだけではわからないのです。礼拝を献げて、初めてそれがわかるのです。
そして、それは知識だけでなく、実現する、という次元での「わかる」であります。
キリスト教信仰とは、知識だけではなく、罪人の生活にそれが実現することだからです。どんなに深く聖書を調べても、礼拝と無関係に永遠の命が与えられることはありませんし、主イエスが共におられることもありません。今、私たちは神の御前に立ち礼拝をお献げしている、ここにこそ、ここにだけ永遠の命とイエスキリストが理解され実現しているのであります。